増大する中年兵士、障害を持つ兵士 — 日中全面戦争下
吉田 裕 『続・日本軍兵士』より

Reading Journal 2nd

『続・日本軍兵士』 吉田 裕 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

2 増大する中年兵士、障害を持つ兵士 第2章 日中全面戦争下 —拡大する兵力動員

今日のところは「第2章 日中全面戦争下」の第2節「増大する中年兵士、障害を持つ兵士」である。日中戦争の長期化により、陸海軍は兵力を拡大した。それに伴い、兵士として入営するのに適さない人材まで招集する必要に迫られた。本節は、そのような無理な兵士の増員の影響についてである。それでは、読み始めよう。

低水準の動員兵力

日中戦争の長期化に伴い、陸海軍の兵力は拡大したが、総人口比に占める動員兵力の割合は、低い水準にとどまった。これは、日本の資本主義の後進性の影響である。日本は工業技術の水準が低く大量生産方式の導入も遅れたため、多数の熟練工が必要であった。また、農業生産の面でも、零細農業が支配的だったため生産を維持するためには、農業労働力を十分に確保することが必要不可欠であった。

その結果、兵力動員と労働力動員との間に深刻な競合関係が生まれた。(抜粋)

そのため、生産に支障をきたさないように配慮すると、兵力動員の面では、無理のある動員が必要であった。

軍隊生活未経験者の招集

兵力充足のための第一の措置は、現役兵の徴集数を増大させることである。(抜粋)

軍隊の大規模な軍備拡充計画の従い、徴兵検査の基準が引き下げられる。これにより小柄な現役兵の徴集が可能になる。

しかし、現役兵の徴集だけでは、必要な兵員を確保できなかったため、第二の措置として、現役を終了した後に編入さえる予備役の者、予備役終了後に編入される後備役に服しているものを大量招集した。

さらに、補充兵役に服している者も大量に招集された。この補充兵役は、予備役・後備役と異なり長期の軍隊生活に服した経験のない人々、兵士としては全くの素人である。

日中戦争が始まると、陸軍はソ連との戦争に備える必要もあり、現役兵中心の精鋭部隊は、かなりの部分中国戦線に投入されず満州などに配置された。その代わりに、中国戦線には、後備役を中心とした特設師団を投入した。

この中国に派遣された兵士の兵役区分は、

  • 現役兵:一一.三%
  • 予備役兵:二二.六%
  • 後備役兵:四五.二%
  • 充役兵:二〇.九%

で、二十代末から三十代末の年齢層の後備役兵が半数近くとなっている。

中国に派遣された日本軍は、その多くが家庭を持つ「中年兵士」の集団だった。戦争目的が不明確のまま、激しい戦場の環境下で、長期の従軍を余儀なくされると、彼らのなかに自暴自棄的で殺伐さつばつとした空気が生まれてくるのはある意味で当然だった。それは日本軍による世相犯罪の一つの土壌となった。(抜粋)

招集が原因の出生率低下

予・後備役の大量招集と長期間の従軍は、出生率の低下ももたらす。帰国を認める本格的な休暇制度が整備されていなかったことも、低下に拍車をかけた。そのため、陸軍中央は、人口政策上の配慮から、一九三九年から四〇年にかけて予・後備役の兵士の復員に踏み切らざる得なくなる。また、長期間の従軍のため軍紀の弛緩が目立ち始めたことも復員の要因となった。この復員の結果、出生率は回復している。

国民兵役までも

徴兵検査の基準が引き下げ(第一の措置)、予・後備役の大量招集、に続く第三の措置は、国民兵役に服している者(国民兵)の招集であった。

この国民兵は、兵役法では、戦時や事変に即して招集可能と定めてあったが、兵籍に編入されていないため、実際には招集が難しく、事実上の兵役の対象外だった。しかし、一九四一年の関連法規の改正によって第一国民兵、第二国民兵共に兵籍に編入され随時招集することが可能となった。アジア・太平洋戦争期の中期になると、第二国民兵の招集が本格化した。

この国民兵の招集は、後備役を終えた高齢の兵士、あるいは著しく体格・体力の劣る兵士が入営してくることを意味していた。(抜粋)

さらに第四の措置として、一九四〇年に徴兵検査の際の身体検査の基準が大幅に緩和された。

これによって、身体もしくは精神に多少の障害があっても、軍務に支障なしと判断できる場合は、その者を現役兵として徴集することが可能になった。(抜粋)

知的障害の兵士

このような措置のため、知的障害を持った兵士が入営することになる。

ここで著者は、一九四二年に入営してくる兵士に行われた調査の結果を示している。それによると「知愚ちぐ」(八〇満点中一五点以下)、「魯鈍ろどん」(三〇点以下)の兵士が全体の一二.一%を占めた。このような兵士は、軍隊に適応できず、自殺したり逃亡したりする例が少なくなかった

吃音の兵士

実態のわからないものとして吃音きつおんの兵士の存在がある。ある徴兵検査の記録によると吃音のものは、検査に参加したもの全体の二.〇%を占めていた。

吃音には「極軽症」「軽症」「中等症」「重症」の区分があり、このうち「重症」は、丙種合格、つまり事実上の兵役免除となった。しかし、短時間の兵役検査では、この重症を識別することは難しく、吃音の詐病を警戒していたこともあり、「重症」の吃音と判定されずに、入営する兵士がかなり存在していた

そのため、吃音のためうまく「軍人勅諭」を奉読できずに自殺するような悲惨な事件が起こった。

野戦衛生長官部による批判

興味を引くのは、戦争が激化し長期化するなかで、人的被害を意に介さない軍の体質への批判が、陸軍のなかから出てきたことである。(抜粋)

野戦衛生長官部は、対策が必要となる衛生面の事項をまとめた報告書の中で、戦傷死及び戦傷予防に対する具体的な対策が取られていないことを指摘し、避けられる犠牲が積み重なっていると批判している。

批判の対象になっているのは、人命の損失をかえりみない陸軍の作戦のあり方、防弾のため個人防護装備の不備、受傷後の初期治療の遅れなどである。(抜粋)

攻撃一辺倒の作戦思想

陸軍の作戦思想は、攻撃一辺倒で、退却を認めないなど柔軟性を欠き、精神主義的色彩が色濃いものであった。また、そのような体質は敗戦まで変わらなかった。

個人防護装備では、ヘルメット(「鉄兜てつかぶと」「鉄帽」)の問題があった。第一次世界大戦がはじまったころ、参戦諸国の陸軍では、革製の軍帽が標準だった。しかし、激しい戦闘のなか死傷者が続出すると、頭部を保護するために鋼鉄製のヘルメットが導入されそれが標準となった。しかし、日本では、ヘルメットの導入が遅れ一九二八年の山東出兵で一部の兵士が「鉄兜」を着用したのが始めであり、正式採用となったのは一九三〇年制定の「九〇式鉄兜」からであった。

受傷者の初期治療については、見直しの動きが始まっていた。日中戦争の長期化に伴い従来の戦時衛生が見直された。そのポイントは、

  1. 第一線での戦傷者の救護の強化
  2. 受傷後六~八時間以内の治療の開始

であった。しかし、これに対応した戦時衛生勤務令や陸軍戦時編制の改正などは行われなかったため、実際に患者収容隊や戦闘救護班が編成されることはほとんどなかった

先に見た野戦衛生長官部による批判は的確なものだったが、陸軍首脳部がその批判を考慮した形跡はない。そこには、陸軍内における軍医(衛生部)の地位の低さという問題が潜在しているように思う。(抜粋)

最後に著者は、輸血の問題に触れている。国際的には、第一次世界大戦で抗凝固剤の有用性が確認され、保存血液による輸血が普及した。しかし、日本の場合は、前線での救命的治療の中心は、止血であり、輸血はほとんど普及しなかった

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