『続・日本軍兵士』 吉田 裕 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
4 給養改革の限界 — 低タンパク質、過剰炭水化物 第1章 明治から満州事変まで —兵士たちの「食」と体格
今日のところは「第1章 明治から満州事変まで」の「4 給養改革の限界」である。前節「梅干し主義」の克服」に書かれているように、戦間期において給養の研究がすすんだ。しかし、そこには大きな問題が孕んでいた。
今日のところ「給養改革の限界」では、タンパク質の不足の問題や戦時給養体制の立ち遅れ、さらに兵士たちのパン食への抵抗感、さらに、「皇軍兵食論」などを取り扱われる。それでは読み始めよう。
巨額の戦費と給養体制の遅れ
ここまで述べてきたように、戦間期の陸海軍では、給養の面で大きな改革が行われた。しかし、そこには大きな問題が孕んでいたことも否定できない。(抜粋)
第一次世界大戦とシベリア干渉戦争では、多額の戦費が必要だった。そして、第一次世界大戦後は、軍備の近代化に力を注ごうとした。しかし、この二つの「政略出兵」に多額の予算を使ってしまったことは、近代化にとって大きなマイナス要因となった。
飯盒体制の始まりとその問題
近代化の遅れは、兵器だけでなく兵站面にも及んだ。特に戦時給養体制が立ち遅れた。欧米では、野戦炊事車が導入され、前線に出勤した野戦炊事車が兵士に温食を届けた。
日本の場合は、日清戦争では、部隊後方で大きな陣釜で飯を炊いて、兵士に運んで分配したが、日露戦争になると、アルミニュームの飯盒が導入され、飯盒方式が始まった。
日本の陸軍は、少数の炊事自動車を導入したものの、第一次世界大戦後も飯盒による炊飯方式を、敗戦に至るまで維持し続けた。そのため、戦場の兵士たちに過度の肉体的負担を強いることになる。(抜粋)
この飯盒体制は、地域の民衆にも疫病神であった。食事をとろうとする前線の兵士は、後方からの供給が不十分であることもあり、水と燃料を民家から略奪した。
こうした蛮行が常態化したのが日中戦争だった。(抜粋)
日本軍が通過した後の集落には、廃墟のようになり、中国の民衆は日本軍を蝗[いなご]のような軍隊という意味で「蝗軍」と呼んだ。
兵食の質の問題
次に著者は兵食の質の問題を取り上げている。兵食は改善が行われているといっても、質に問題があった。
著者は、アメリカやイギリスなどの国と日本の熱量摂取量を比べて、アメリカやイギリスは、摂取熱量で日本を大きく上回っていることを示す。そして、重要なのは動物性たんぱく質の摂取量で、それらの摂取量は、アメリカやイギリスに対して日本は大きく下回っていると言っている。
兵食を見てみると、やはり炭水化物に偏重した食生活の構造は、一般の国民と変わらない。そして、軍隊は飯を腹一杯食べさせることにこだわり、副食の改善にほとんど関心を持っていない。
海軍の兵食について簡単な国際比較を試みた論文(高木真一「日本及び英・米軍海軍の兵食」)によると、
- タンパク質:アメリカが最も多い、日本とイギリスは差異はないが、イギリスは牛肉・豚肉、日本は魚中心
- 脂肪:アメリカがイギリスの二倍、日本はイギリスの半分。
である。
陸軍で採用された「炊事専門兵」は一九三六年頃まで存在が確認できるが、その後廃止されたようである。これに対して海軍は烹炊員という専門兵が炊事を担当する制度であった。
陸軍・海軍でのパン食
ここでは陸軍のパン食について見ていく。
陸軍は一九二〇(大正九)年以降パン食の普及に取り組むが兵士の嗜好に合わないこともあって、パン食には強い抵抗感があった。当時、入営する兵士の半分ほどがパン食の経験がなかった。
海軍でも繁殖に対する反発は絶えなかった。兵員がパンを捨てるため「残飯」より「残パン」の方が多いありさまであった。そして一九三五年には、パンの強制支給を取りやめて、状況によっては米麦飯に変えることが可能となった。
パン食の停止と「皇軍兵食論」
このパン食を拒否する理由としては、嗜好という面だけでなく、欧米文化に対する反感が存在した。当時海軍では、ロンドン軍縮会議の条約締結をきっかけに、条約締結をやむなしとする「条約派」と条約を拒否して軍備を拡張すべしとする「艦隊派」に分かれていた。そして、「艦隊派」が主導権をにぎり国家主義的な風潮が広がった。パン食の事実上の廃止は、そのような風潮の反映でもあった。
陸軍でも変化があり、一九三四年に軍医総監の小泉親彦が陸軍省医務局長に就任する。
小泉はまた、医務局長としては、「皇軍兵食」は日本固有のものでなければならないことを主張した。(抜粋)
小泉は、
帝国には日本独特の栄養型があるのでありまして、気候、風土、嗜好、習性、海産、農山産物、農耕畜産関係等から、その量に於きましても、その質に於きましても皇国特有のものが存するのであります。(「国民体力の現状に就いて」)(抜粋)
と言いている。「皇国兵食」論の登場である。
著者は、小泉の「軍陣衛生学」の最大の特徴が「人的戦力」の強化にあると言っている。日本は、工業力・経済力では欧米に劣るため、「人的戦力」を強化して「機械万能主義」「物質万能主義」の欧米に対抗すべきであとし、これが小泉の「軍事衛生学」の核心であった。これは同時に陸軍に根強くあった「歩兵万能主義」の軍事医学から呼応していく学説であった。
コラム② 戦場における「歯」の問題再び
コラム②では、前著『日本軍兵士』でもしばしば取り上げられた兵士の歯の問題について再度取り上げられている。(『日本軍兵士』の該当箇所はココとかココ。)
日本の陸海軍は、兵士の歯の治療にあたる歯科軍医の育成を軽視していた。日中戦争では、近接戦闘が激化し歯と顎全体を損傷する顎顔面損傷が増加し、歯科医師の協力が必要になっていた。日本歯科医師教会は、一九二四(大正一三)年以来何度も「歯科軍医」制度の創設を求めていたが、陸海軍は重い腰をあげず、歯科医師将校制度を創設したのは、一九四〇年になってからであった。
制度の遅れには、学閥の問題もあった。戦前の日本では、帝国大学には歯学部置かれず、歯科医師の養成機関は私立の専門学校だった。軍医は帝国大学出身者が多く、歯科医師を軽んじる傾向があった。
このような状況のため、歯痛に悩まされる兵士は民間の歯科医の診療を受けるしかなく、経済的にも負担だった。また、兵士の口腔衛生の知識は乏しく、歯磨きの習慣を身に着けていない兵士も多かった。
結局、第一次世界大戦を契機として、戦場における歯科医療の改革に着手しなかった日本陸海軍は、欧米諸国から大きく立ち遅れることになる。歯科医療の面では、この立ち遅れは特に顕著なことだった。(抜粋)

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