『続・日本軍兵士』 吉田 裕 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
3 「梅干し主義の克服、パン食の採用へ — 明治・大正期 第1章 明治から満州事変まで —兵士たちの「食」と体格
今日のところは「第1章 明治から満州事変まで」の「3 「梅干し主義」の克服、パン食の採用へ」である。前節「優良な体格と脚気問題」において、明治・大正期における給養の問題として脚気の問題が取り扱われた。
それを受けて、今日のところ「「梅干し主義」の克服、パン食の採用へ」では、軍の栄養学的な発展があった戦間期(第一次世界大戦後~第二次世界大戦まで)における給養の改善について書かれている。「梅干し主義」を克服パン食の採用などで脚気の発生率が大幅に下がっていることがわかる。それでは読み始めよう。
戦間期における栄養学の発展
第一次世界大戦の終了から第二次世界大戦がはじまるまでを、戦間期と呼ぶ。第一次世界大戦で食料の問題が注目されたため、戦後各国で栄養学が発展した。そして、日本でもその新たな栄養学の知見に基づく兵食の研究・改善が進んだ。
陸軍の兵食改善 — 「梅干主義」の克服とパン食の採用
陸軍では、軍医学校教官の小泉親彦を中心に兵食の研究が始まり、代謝や栄養価なんどの研究が進んだ。さらに、食料などの調達・製造・補給などを担当する糧秣本廠でも兵食の改善に関する研究が進んだ。
糧秣本廠で研究の中心となった経理将校の丸本彰造(最終階級は主計少将)は、この時期、兵食について「梅干主義」の克服を強く主張している。丸本によれば「梅干主義」とは、「何でも腹一杯に食えばよい。品物は何でもかまわぬ。料理法なんかどうでもよい。(中略)食事のことに顧慮するのは愚の骨頂だ。前へ前へだ。過去の戦勝は梅干の握飯で勝ったのだ」と唱えるものを意味」した(「生活改善より観たる我国食事の改善事項に就[つい]て」)。丸本は、こうした陸軍の古い体質と戦おうとしたのである。(抜粋)
具体的に糧秣本廠では、軍隊調理に関する巡回指導や歩兵部隊に「炊事専門兵」の採用などを行った。
この頃の兵食について、あまり具体的なデータはないとしながら、著者は幾つかのデータを示し、軍隊の食事は一般国民の食生活よりかなり充実したものだったと言っている。
陸軍の食事の改革で重要なことは、パン食の導入だった。日本国内だけでなくシベリア派遣部隊でも、毎日一食のパン食が励行された。
このパン食の理由としては、
- 陸軍の行動予定地である満州が小麦の産地あるため、現地調達が可能だった。
- パンは米のように飯盒を使った面倒な炊事を必要としなかった。
- 冬の満州では「飯盒飯」は凍結してしまうこと
などである。このパン食は兵真負担軽減には大きな意味があった。
このようにして、一九二〇年代から三〇年代にかけて、陸軍の兵食は大きく改善された。(抜粋)
海軍の兵食改善
海軍では、明治時代に脚気の蔓延に悩まされた。そしてその後、パン食の採用などにより脚気の患者は激減した(ココ参照)。
ところが、第一次世界大戦がはじまり、海上交通路の保護のため艦隊をオーストラリアやアメリカにまで派遣すると、また、脚気の患者が続出する。その原因は、根拠地から遠く離れた遠隔地に艦隊を派遣したために、補給が途絶え、精麦・パン・新鮮な野菜や肉類の不足したことであった。
そのため海軍は、船内の「糧食冷蔵庫の整備」と大きな冷蔵庫を持ち生鮮食料品を絶えず補給できる「補給船」の建造を行った。
満州事変期のへ洋食の普及と充実
満州事変が始まっても、兵食の改善の流れは変わらなかった。陸軍では洋食の採用、副食の改善が進んだ。このような兵食は、国民の食生活と比べても充実したものであった。
この頃の国民一人当たりの熱量の摂取量は、平均で二〇五キロカロリーであるが、兵食では、二九九〇カロリーである。
満州事変期の戦地での兵食は、非常に充実していたことになる。(抜粋)
壮丁と兵士の体格
戦間期の壮丁の平均身長・平均体重は、着実に増加し、戦間期は身体という面からも比較的安定していた時代だった。しかし、国民全体の保健衛生という面では、欧米諸国に比べて、結核死亡率・乳児死亡率が極めて高いことに留意する必要がある。
また、この時期はまだ現役徴収率がそれほど高くないため、実際の兵士の平均身長・平均体重は、壮丁を大きく上回っている。


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