『続・日本軍兵士』 吉田 裕 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
序章 近代日本の戦死者と戦病死者(後半)
今日のところは、「序章 近代日本の戦死者と戦病死者」の”後半“である。本章は、近代日本の対外戦争を戦病死という視点から振り返っている。”前半“において、日清戦争の戦病死の割合が非常に高く、疾病での戦いであったこと、そしてその後、満州事変までは、軍事衛生や軍事医療の改良のためそれが徐々に回復していく様子が記述された。
今日のところ”後半“では、その改善の傾向が、日中戦争、アジア・太平洋戦争と戦争が激化するに従い後退し、戦病死者の割合がどんどん大きくなっていく様子が示されている。それでは読み始めよう。
日中戦争 — 戦病死率の激増
日中戦争に派遣された陸軍の兵力は、一九三八年に六八万人、三九年には七一万人に達し、四○年には、膠着状態となる。この戦争の衛生史は、編纂が終わらないうちに敗戦を迎えたが、一九三七年から四一年までの陸軍戦死者数・戦病死者数のデータが残っている。
それによると全戦没者に占める戦病死者の割合は、
- 三七年 — 三九年:二六.三〇%(日露戦争より低い)
- 四〇年:四六.二二%(日露戦争より大きく上回る)
- 四一年:五〇.二一%(日露戦争の倍近く)
となった。
戦争の長期化によって兵士を取り巻く戦場の環境が劣悪化し、兵士の体格、体力が低下していることもあって、軍事衛生の面では明らかな退行現象が生じていることがわかる。(抜粋)
戦病について、南支那派遣軍の一九四一年のデータによると
- マラリア:(三万五四五六名)
- 脚気:(四八七四名)
- 結核(一九〇四名)
である。ここで、日中戦争が華南に拡大するに伴い、マラリアが猛威を振るったこと、脚気が再度上昇したこと、一般国民の間で広まった結核が登場したこと、が重要な点である。
この脚気の復活は、軍の給養が急速に悪化したことを示している。
アジア・太平洋戦争 — 五割を優に超える戦病死者
戦没者の数
アジア・太平洋戦争期は、陸海軍ともに公式の衛生史を編纂していない。戦後に旧陸軍の愚に関係者がまとめた、陸上自衛隊衛生学校編『大東亜戦争陸軍衛生史』があるのみである。また、公文書の焼却が徹底され、限定的な分析とならざるを得ない。
日中戦争、アジア・太平洋戦争の軍人・軍属の没者は、約二三〇万人、民間人の戦没者は約八〇万人、合計三一〇万人である。ここで、戦死、戦病死の区別はわからない。陸軍、海軍別の戦没者ついては、資料が残っていて陸軍が一六四万七二〇〇名、海軍が四七万三八〇〇名である。海軍の戦没者は陸軍の約三割であり、これまでの戦争とは異なり、海軍の戦没者数も決して少なくない。これは海軍の大拡張が行われた結果である。
戦病死者の割合
戦死・戦病死者の別については、敗戦直後に陸軍省がまとめた統計が残っている。それによると、アジア・太平洋戦争での戦死者数は、四九万六〇一三名、戦病死者は、三〇万七〇二〇名、全戦没者に占める戦病死者の割合は、三八.二%である
しかし、この統計は、敗戦直後の調査で、資料の無い戦闘もあり注意する必要がある。そして、それでも三八.二%という日露戦争をはるかに上回る数字となると著者は指摘している。
そして、実際の戦病死者率については、すでに日中戦争時の五〇.二一%に達していたことを考えると、より苛酷なアジア・太平洋線では、五割を優に超えると考えられる。実際の戦病死者率について著者は、『飢死した英霊たち』で藤原彰が出した六割が広義の餓死であるという推定は妥当であると言っている
『大東亜戦争陸軍衛生史』によって、戦病の発生数を見ると、
- 南方戦線では、① マラリア ② 脚気 ③ その他の全身病
- 中国戦線では、① 結核 ② マラリア ③ 脚気
となっている。脚気が復活していることが分かる。そして、「戦争栄養失調症」(後述)は、「その他の全身病」に区分される。
このようにみてくると、日清戦争以降の近代日本の戦争のなかで、満州事変までは、軍事衛生や軍事医学の面でかなりの進歩がみられることは明らかである。しかし、日中戦争の長期化とアジア・太平洋戦争によって、それは退行し、日露戦争以前の水準まで後戻りしてしまった。
日清戦争以降の歴史をたどりながら、退行や後戻りの原因を具体的に明らかにするのが本書の目的である。(抜粋)
コラム① 戦史の編纂 — 日清戦争からアジア・太平洋戦争まで
陸軍、海軍共に戦争が終わるごとにそれぞれ戦史を編纂していた。
- 日清戦争:陸軍・『明治二十七、八年日清戦争史』、海軍・『明治二十七、八年海戦史』
- 日露戦争:陸軍・『明治三十七、八年日露戦争』、海軍・『明治三十七、八年海戦史』
- 第一次世界大戦:陸軍・『大正三年日独戦史』、海軍・『大正四年乃至[ないし]九年戦没海軍戦史』
また、日清戦争、日露戦争では、「戦没統計」や衛生史も編纂された。このような戦史は重要な事実が伏せられたり、戦争暗部に言及しないなどの問題点もあるが、基礎資料として重要な意味がある。
しかし、満州事変以降は戦史の編纂も滞る。
- 満州事変:『満州事変史』全二八巻の編纂が計画されたが、全一二巻を以て発行中止となる。
- 日中戦争:「支那事変史編纂部」を設けて編纂を始めたが、アジア・太平洋戦争中に編纂が中止となる。
満州事変と日中戦争に関して、基礎的なデータが欠けている理由は、敗戦前後の公文書の焼却にくわえて、戦史の編纂が途中で打ち切られているからだろう。
- アジア・太平洋戦争:戦後に「公刊戦史」として、防衛研修所戦史室『戦史叢書』が発行されている。
この『戦史叢書』の発行は、軍事史研究の発展に大きく貢献した。しかし、編纂者の多くが旧陸海軍の幕僚であったため、旧軍のような作戦中心主義、作戦第一主義的な性格を免れず、旧軍の弁護に流れがちという限界があった。
関連図書:藤原 彰(著)『餓死した英霊たち』、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2018年


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