おわりに / あとがき
吉田 裕 『続・日本軍兵士』より

Reading Journal 2nd

『続・日本軍兵士』 吉田 裕 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

おわりに

本書の終章「おわりに」では、陸海軍の野放図な軍拡の意味を考察し、アジア・太平洋戦争での悲惨な敗戦を準備したのは、日中戦争の長期化と戦略的見通しを欠いた無統制な軍拡であったと、指摘している。それでは読み始めよう。


以上見てきたように、帝国陸海軍は、一九二〇年代以降、軍事医療や軍事衛生、さらには、兵士に対する給養などの面でも、近代化や改革に積極的に取り組んできた。その努力を無に帰したのが日中戦争だった。最後に、日中全面戦争の長期化とその下での野放図な軍拡が持った意味について考えてみたい。(抜粋)

臨時軍事費と野放図な軍拡

日中戦争期に、臨自軍事費(臨軍費)が成立した。これは、戦争の開始から終結までを一会計年度とした軍事費の特別会計で、決算は戦争終結後に行われる。予算編成は大蔵省の審査も不十分で、細目しか示されないため議会の審議も形式的なものとなった。

軍事機密を理由にして、政府や議会の関与を排除することができる特殊な軍事予算である。(抜粋)

この臨軍費は、陸海軍からすれば使い勝手が良い予算で、これを使い戦費として成立した予算を転用し、軍備の拡張に充てることが出来た。そして、日中戦争期に軍備の拡張につながる

軍隊内部からの批判や意見

このように軍拡が行われたが、軍備の拡張の「質」が問われなければならなかった。しかし、陸軍の場合、兵力の増大、特に師団数の増大に力がそそがれた

このような「頭数」を増やすだけの軍拡に批判的な軍人もいた。

宇垣一成の陸軍上層部批判

その一人が、陸軍大将だった宇垣一成である。彼は陸相時代に「宇垣軍縮」と呼ばれた軍縮を行った。軍縮を求める世論の求めに応じる形で師団数を減らし、節約した予算を使って戦車部隊・航空部隊・高射砲部隊などの新設をした。軍備の近代化・機械化のための「軍縮」である。

宇垣は現役を退いたのちであるが、師団数増設中心で機械化科学化をしない陸軍上層部を批判している。

騎兵監・吉田悳の意見書

現役の軍人のなかにも、師団の増設と軍の機械化は両立しないという認識を持つ者もいた。騎兵監の吉田悳である。彼は、騎兵の機械化(自動車化)と装甲部隊の拡充を強く主張し「装甲兵団と帝国の陸上軍備」という意見書を出した。

ここで吉田は、開戦により多数の国民を招集し前線に投入すれば、国内の軍需要員が減少し、軍備資材の補給力が低下し、民需資源の生産を阻害するため、却って戦力は低下する。したがって、軍の徹底的な機械化、装甲師団化を進め、戦場要員を減少させるべき、と説いている。

国内の軍需産業・民需生産に配慮しつつ、軍の機械化と装甲部隊の創設によって、前線の兵力数を極力減少させるという構想である。(抜粋)

軍内にも少数であるがこのように、師団の増設よりも軍の機械化が重要であるとする現役軍人もいた。

日本陸軍の機械化の限界

ここで陸軍の機械化の進展状況を簡単に見ておこう。(抜粋)

第一次世界大戦で、戦車や自動車などの新兵器が活躍し、また機関銃などの発達もあり、騎兵が時代遅れの戦力になる。

そのため、欧米列強は、第一次世界大戦後、騎兵を廃止し陸軍の機械化に力を注ぐ。日本では、財政的制約もあり騎兵の廃止ではなく騎兵の機械化という路線が選択された。

日中戦争開戦後の軍拡により、騎兵の機械化が進んだ。新設の師団には騎兵連隊に代わり装甲車からなる捜索隊が編成され、既存の騎兵連隊も自動車や装甲車を装備した捜索連隊に改編されていった。

しかし、自動車や装甲車の生産が追いかないため、アジア・太平洋戦争が始まると、新設の師団には騎兵隊も捜索隊もない師団が増え、既存の騎兵大隊・騎兵連隊、捜索隊・捜索連隊の中には解散する部隊も出てくる。また装甲車も自動車もなく徒歩部隊だけの捜索隊も少なくない状況となった。

その結果、敗戦時には機械化された固有の部隊を持つ師団は、全体の二二.六%に過ぎないという状況になっていた。

追いつかなかった軍備拡張

機械化・自動車化は、その生産だけでなく、それを支える人員も決定的に不足していた。モータリゼーションが遅れていた日本では、急増する師団数に対応するだけの運転手や整備要員を短期間のうちに育成することは、事実上困難だった。

日本の場合、師団の急激な増設と軍の機械化・自動車化との間には、決定的な矛盾があったと言えよう。(抜粋)

陸軍の軍備拡張は、一九三六(昭和一一年)の「軍備充実計画」に沿って行われたが、日中戦争のために大軍力を中国戦線に展開したことにより挫折した。日本には、大軍を中国に送り戦いながら、新軍備を蓄積する力がなかったからである。

結局、日本の国力では、臨時軍事費の転用などによって、「正面装備」の充実はある程度実現させたものの、軍の機械化・自動車化、兵站の整備、軍事衛生や軍事医療、給養の充実などの課題はすべて先送りとなった。「奥行き」のある軍備は、最後まで実現できなかったのである。(抜粋)

そして、最後に著者は、このように言って本書を閉じている。

アジア・太平洋戦争における「大日本帝国」の悲惨な敗北を準備したのは、軍事史的にみれば、日中全面戦争の長期化と戦略的見通しを欠いた無統制は軍拡だった、と言うことができるだろう。(抜粋)

ここの最後の二つの引用部は著者の思いを述べているのだと思った。最初の引用部で、「「奥行き」のある軍備は、最後まで実現できなかった」とあるが、これは、「はじめに」書かれていた「第一の視点:正面装備の重視、「間口」だけの日本」に対応する。ここでは、夏目漱石の『それから』にある「奥行きをけずって、一等国だけの間口を張っちまった」という批判を載せていた。ここを読んだときは、なんで漱石?と思ったが、つまりは、日本軍は、間口(正面装備)だけ急ごしらえの、奥行き(機械化、兵站、医療など)が不足している軍隊だった、ということであろう。

そして、次の引用部では、そのような間口だけの軍隊になってしまった原因は、「日中戦争の長期化」「無統制の軍拡」であるというのが、著者の結論なのかと思った。これまで日本軍については、「突撃主義」などの精神面が多く語られるが、それだけでなく間口だけの軍隊という大きな弱点もあったってことですよね。

さらに、この「日中戦争の長期化」については、加藤 陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』によると、中国側の思惑に日本が嵌ってしまったとのことだ。当時の中国政治家胡適こてきは、「日本切腹、中国介錯論」を主張し、日本の侵略を止めるためには、米国とソ連の軍備が整うまで、二、三年負け続ける覚悟で戦争をする必要があると唱えていた。アジア・太平洋戦争では、中国は負け続けながら日本の大部隊を中国戦線に引き付けたのも思惑のとおりだったんですね。(つくジー)

あとがき

「あとがき」では、軍事史研究という分野の進展の話と、その流れの中にある前著『日本軍兵士』及び本書『続・日本軍兵士』について、さらには、本書の執筆時の苦労話などが書かれている。

軍事史研究の流れと、戦史としての『日本軍兵士』と本書

日本の軍事史は、長らく学術分野として困難な状態であった。それは、軍事史研究そのものが、ある種の批判の対象であり、その研究者にも懐疑的な視線が向けられた。これは、日本における戦後の歴史学のあり方と関係し、軍事史研究が戦争を正当化し戦争に奉仕する学問であるという考え方が根強かったからである。そのため、軍事史研究は学問の周辺に追いやられていた。

こうした状況に大きな変化が生じるのは、日本史研究の分野では一九九〇年代以降のことである。(抜粋)

このころ、戦後生まれの研究者を中心に、軍事史研究が大きく進展した。しかし、狭義の軍事史=戦史(作戦史、戦闘史、軍事思想史)研究の分野は手つかずの状態であった。これまでの戦史研究は、戦闘の勝因や敗因を分析し、将来の戦闘の教訓を導き出す「戦訓研究」の傾向が強かった。

そこで、著者はこの戦史研究に歴史学研究の分野から「戦闘や戦場の実態を、民衆史、社会史、地域史などの手法でとらえ直す」ことを行なった。それは、「戦場や戦闘のリアルで凄惨な現実を明らかにすること」であった。

その最初の試みが『日本軍兵士』 である。そして、その続編の本書では、「アジア・太平洋戦争における大量死の歴史的背景を、明治時代にまでさかのぼって明らかにする」ことが課題であった。

執筆時の苦労について

しかし、残された資料があまりにも少ないために著者は最後まで悩まされ続けたと、言っている。先行研究も少ないため、「ヤマカン」であたりをつけて調べることも多くなかなか史料に到達できない。さらには、書名が既に分かっている文献でも、所蔵先が不明だったり、やっとわかって史料の問い合わせをすると行方不明だったりしたという。


関連図書:
加藤 陽子 (著)『それでも日本人は「戦争」を選んだ』 朝日出版社 2009年
(加藤 陽子著 「それでも日本人は戦争を選んだ」 新潮社(新潮文庫) 2016年)
吉田 裕 (著)『日本軍兵士』、中央公論新社(中公新書)2017年


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