『続・日本軍兵士』 吉田 裕 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
2 劣悪な装備と過重負担 — 体重40%超の装備・装具 第4章 人間軽視 — 日本軍の構造的問題
今日のところは、第四章「人間軽視 — 日本軍の構造的問題」の第二節「劣悪な装備と過重負担」である。日本軍の機械化、自動車化の遅れのために歩兵の行軍は徒歩に依存するしかなかった。そして兵士は過重な負担を強いられた。また、劣悪の装備によりその負担はさらに増えることになる。それでは読み始めよう。
過重負担の装備
機械化、自動車化の遅れのため、日本軍は最後まで歩兵の行軍は徒歩で行わざるを得なかった。そして、歩兵の負担量(装備の送料)と負担率(負担量と体重との割合)は、過大なものだった。
陸軍における負担率の公式な割合は、約四〇%であった。この約四〇%でも相当な割合であるが、実際にはこの規定は無視され、さらに過大な負担が課されていた。
当時の資料によれば、小銃兵の負担率は四七%、軽機関銃兵は、五三%、重擲弾筒弾薬手に至っては六〇%に達していた。
アジア・太平洋戦争期には、この過大な負担率について、兵士の体力や健康に配慮すべき軍医までもが、「斬新的に訓練すれば十分耐えられるようになる」と認めていた。
戦闘の「現場」、兵士の限界点
戦場の現場では、過大な負担と徒歩による行軍により兵士は、その限界を超えていた。そのため、作戦の前と後では兵士の体重は大きく減り、疲労により「戦争栄養失調症」(ココ参照)になる兵士も多かった。ある報告書では、「強行軍、無給養、給養の低下」の状況での現場では、負担三〇キロは過大であり、長期作戦の場合の負担量は体重の三分の一を限度とすべきであるとしている。
負担量は体重の三分の一、二〇キロが限界、というのが現場の判断だった。(抜粋)
一〇〇日間、二〇〇〇キロを超える行軍と航空機の「非戦闘喪失」
中国戦線で開始された大陸打通作戦が開始されると、戦線が広大な地域に拡大する。すると、内地から送られる補充兵が自分の部隊を追究し長距離の徒歩での行軍を余儀なくされた。
補充兵は、一〇〇日、二〇〇〇キロを徒歩で移動することとなり、飢えと疲労により多数の落後者を出した。
戦後の調査によれば、消息の判明した三〇○四名のうち、実に九七三名が落伍し、戦病死となっている。前線に到着し戦列に加わる前に、行軍の途中でいわば「自滅」しているのである。(抜粋)
同じようなことは、空でも起こっている。
一九四四年一月~五月の五ヵ月間に、日本海軍は戦闘で七六三機を失っている。ところが前線への空輸中や訓練中の「非戦闘喪失」は、その三倍以上の二三九三機にものぼった。(抜粋)
軍用機が堅牢さ欠いていたための着陸事故、故障の多発、熟練パイロットが不足したための、航行ミスのために「迷子」となる事例、などである。
中国人から略奪した布製の靴、草履
徒歩行軍の依存が高まったなかで、軍靴の粗悪化と供給不足は深刻だった。十分な軍靴がないため兵士たちは中国人から略奪した布製の靴や草履を履いている者もいた。
また、そもそも当時の日本人のなかには、入営前に靴を履いたことがある者は決して多くなかった。ある調査によれば、兵士の二四%は生まれてからこの方、靴を履いた経験がなく、常に靴を使用していたのは全体の二〇%に過ぎなかった。また、その靴も多くは「ゴム靴」であり、革靴ではなかった。
長台関の悲劇
中国での大陸打通作戦の時期には、制空権は米軍に握られていた。そのため、行軍は夜間中心となり、体力の消耗が一層深刻になる。こうしたなかで長台関の悲劇が起こった。ここでは、藤原彰の『中国戦線従軍記』により、その概要が記されている。
大陸打通作戦の途中、淮河を渡河するために渡河地点の長台関に各師団が向かっていた。夜間の行軍中、氷雨が降り始めた。道路はひどく渋滞したため、兵士たちは道路上に立ち往生し、足踏みを繰り返しながら豪雨に撃たれ続けた。
連日夜間の行軍が続き兵士が睡眠不足と過労状態にあったことも災いした。その結果、日中は日射病患者が出るほどの厚さだったにもかかわらず、夜間の豪雨下の強行軍によって、師団全体で一六六名もの凍死者を出すという遭難事件が起こった。「長台関」の悲劇である。(抜粋)
この時、風速は一〇メートル、体感温度は零度以下となり、寒さに強い馬もぶるぶると震えるような寒さであった。
粗悪な雨外套
この悲劇の原因は、劣悪な被服・装具にも原因があった。当時の雨外套では、豪雨時には、防水剤が洗い流され、雨が衣類を通して肌にまで達するようになっていた。このような、「防水布」では、豪雨時に役に立たないため、「桐油紙」、「ゴム」などの完全な防水布が必要であるという提言をする者もあった。
関連図書:藤原 彰(著)『中国戦線従軍記』、岩波書店(岩波現代文庫)、2019年

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