『続・日本軍兵士』 吉田 裕 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
1 機械化の立ち遅れ — 軍馬と代用燃料車 第4章 人間軽視 — 日本軍の構造的問題
今日から、第四章「人間軽視 — 日本軍の構造的問題」に入る。今まで第一章より第三章まで、明治からアジア・太平洋戦争までの陸海軍の実態を時間軸で追ってきた。そして第四章では、時間軸を外れて、日本軍の構造的な問題に焦点を当てる。それは、一言で言えば「人間軽視」ということである。
今日のところ「機械化の遅れ」では、主に自動車製造の遅れと軍馬への依存、さらに、石油不足から発案された代用燃料車についてである。それでは、読み始めよう。
国産車の劣悪な性能と「戦時規格型トラック」
帝国陸海軍では、兵士に必要以上の負担を強いる特性があった。この章では、この問題について、具体的に考えてみたい。
一つ目の問題は、陸軍における機械化・自動化の立ち遅れである。
戦前期において日本のモータリゼーションは、欧米に比べてかなり遅れていた。一九三六年時点での年間自動車生産台数は、アメリカ四四六万台、イギリス四六万台、ドイツ二七万台、に対し日本は一万台であった。
日中戦争前後から国産車の生産拡充が国家的課題となる。しかし、その国産車の性能は、劣悪であり、妙なところで故障が起こるなど信用がなかった。
アジア・太平洋戦争が始まると、自動車(トラック)の生産台数は増大する。そして、資材を極端に節約した「戦時規格型トラック」の生産が始まった。このトラックは、後輪、ダブルタイヤ⇒シングルタイヤ、予備タイヤは積まない、運転席・荷台は木製ボディ、フロントブレーキは廃止、ヘッドランプは中央に一個、方向指示器は取り外す、といった「悲惨なともいうべき状態」であった。
さらに、戦局が悪化すると航空機の製造が優先され自動車の生産は急激に落ち込んだ。結局一九三七年から四五年の間に生産された軍用トラックは、一万五〇〇〇台に過ぎない。
「代用燃料車」の登場
日米関係の悪化に伴う石油禁輸のため、陸軍では、石油の徹底的な消費規制に乗り出した。その一環として木炭・薪炭を燃料とした「代用燃料車」が生まれた。
しかし、これは中国戦線などで使用されたが、大きな問題があった。ガソリン車よりも速度や馬力の点で劣り、のろのろ運転やエンストを繰り返す。そのため非常に能率が悪く、さらに馬力がないため一度凹みにはまると、なかなか自力での脱出が出来なかった。さらに燃料の薪の所要量が大きく、携帯しなければならない薪は、一日一〇~一五時間の走行で、約二〇〇~三〇〇キロにもなった。
軍機械化の主張とその限界
陸軍も第一次世界大戦の教訓により、機械化・自動車化に力を注いだ。日中戦争以降は、騎兵部隊を自動車・装甲車中心の部隊に置き換えられ、補給担当の輜重兵連隊も、自動車中隊が増加していく。また自動車化の遅れに警鐘をならす軍人もいた。
しかし、第一次世界大戦は、軍馬の重要性を再認識させられた戦争でもあった。(抜粋)
大量の兵力動員、弾薬の大量消費などにより、弾薬や食料の運搬にあたる軍馬の需要が増大した。これは、自動車の導入が急速に進んだ欧米諸国でも同様である。さらに、陸軍は、中国大陸を予想戦場と考えていたため、悪路や未舗装道路に強い軍馬の方が輸送に適していると考えていた。
また、欧米に比べ工業面で大きく立ち遅れていた日本では、軍の機械化・自動車化を進めようにも、そこには大きな限界があった。結局、日本は、敗戦に至るまで陸軍の主たる輸送手段は、軍馬によるものだった。

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