『続・日本軍兵士』 吉田 裕 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
2 伝染病と「詐病」の蔓延 第3章 アジア・太平洋戦争末期 — 飢える前線
今日のところは「2 伝染病と「詐病」の蔓延」である。アジア・太平洋戦争の末期には、膨大な数の戦没者がでてくる。そこには、栄養失調やマラリアなどの伝染病での戦病死、精神疾患の問題、そして厭戦からの「詐病」などの問題が起こった。さらにここでは、兵士全般を悩ませた皮膚感染病などの問題も取り扱われている。それでは、読み始めよう。
戦争末期の戦没者の急増
アジア・太平洋戦争の開戦後から敗戦までの年次別戦没者数は、よくわからない。政府が公表しているのは、日中戦争以降から敗戦までの軍人・軍属の戦没者数、約二三〇万名という概算だけである。
しかし、岩手県のみ年次別の軍人・軍属の戦没者数を公表していて、その数値を援用して推定すると、約二三〇万名のうち、約二〇一万名が一九四四年以降に戦没していることになる。これは全戦没者の約八七.六%である。
戦争末期の戦没者数が非常に多いのが、アジア・太平洋戦争の大きな特質である。(抜粋)
そして、もう一つの特徴が、全戦没者の六割以上が戦病死であるということである(ココ参照)。
その要因として著者は、
- 連合軍の攻撃により食料・医療品などの補給が途絶えたこと
- 国力を無視して戦線を拡大しすぎたこと
- 作戦第一主義が災いして補給を軽視したこと
- 無理な徴集・招集の結果、「弱兵」や「老兵」の割合が大きくなったこと
などを挙げている。
栄養失調の深刻化
この時期は、戦病死者数の大部分は、栄養失調による餓死者+栄養失調による体力消防の結果、マラリアなどの伝染病に感染して病死した広義の餓死者だった。
陸軍において問題になった「戦争栄養失調症」(ココ参照)と同じく海軍でも「不順化性全身衰弱症」が問題になった。
海軍に栄養失調症がでると国民の士気に影響すると、このような名前(環境に馴染めないための全身衰退)となったが、実際には戦時型の栄養失調症であった。
また、栄養失調症は、精神疾患の原因ともなった。補給を断たれ深刻な飢餓状態になった孤島の守備隊では、全患者数の一割ほどが精神異常をきたした。
マラリアの多発
アジア・太平洋戦争の開戦により、本格的な南進が始まると各地でマラリアが猛威を振るい、日本軍は感染の防止をすることができなかった。
そして、このマラリアは、栄養失調と深く関連していた。伝染病に対する予防対策として栄養を完全にすることは極めて大切で、予防接種も化学薬品も栄養がない場合は、無意味の場合がある。
また、マラリアの特効薬はキナの樹皮を使ったキニーネであるが、この世界最大の産地はジャワ島であった。日本軍は、開戦直後にジャワ島を占領し、キナ皮とキニーネの生産に力を注いだが、連合軍の攻撃により海上輸送が寸断され、日本本土への輸送は困難となった。そして合成薬で抗マラリア薬の生産も行われたが、原材料が火薬と競合したため、需要を満たせなかった。
現場での非現実的予防対策
マラリア対策の立ち遅れには、日本軍の構造的欠陥が関係している。陸軍では戦闘部隊の兵科将校と予算、経理、給養担当の経理部、軍医の属する衛生部に属する将校と明確に区分され両者の間には差別があった。
経理部将校は兵科将校の下位に置かれ、この事が補給を軽視する陸軍の体質に影響した。同様に経理部将校の方が衛生部将校より上位に置かれているため、軍医がマラリアの予防対策には栄養の裏付けた必要であると訴えても、給養を担当する経理部将校は、それを軽視しその意見を重視しなかったのである。
このような状況のため、「現場」でのマラリア予防対策はおよそ非現実的なものとなった。(抜粋)
著者は、具体的な「現地」でのマラリア対策、つまり、蚊に刺されないように、夜間は裸を禁じる、なるべく長袖、長ズボンを履く、便所には団扇をもって蚊に刺されないように用心する、などをあげている。
一方、米軍はDDTの大量使用により蚊を駆除しマラリア予防にある程度成功している。また、一人一人の兵士尾優秀な防蚊装備を携帯していた。
精神病の「素因」重視
当時の精神疾患の認識は、遺伝的素質や病的体質などの「素因」が主であり、あくまでも、戦争は「誘因」にすぎないというものであった。
つまり、すでに発病しているか、発病する条件を持っている者が、戦場で精神疾患を発症するという考え方であった。(抜粋)
これは、米軍でも当初は主な原因は「素因」であると考えられていた。しかし、しだいに「異常な」戦場の環境に対する兵士の「正常な」反応だという認識に移行していった。その結果、前線での精神分析的な心理療法がおこなわれた。
しかし、日本は「素因」を重視する立場であり、兵士の苦悩を理解せず、兵士がもともとそのような素質を持っていたものとみなされた。そのため、陸軍病院の精神病棟は閉鎖的で抑圧的なものとなった。
詐病の摘発
軍医の重要な仕事の一つは詐病の摘発だった。特に精神病の場合は、詐病かどうかの判定が難しく、その診断はいきおい強権的となった。「精神病の詐病診断法」として「殴打、飢餓、首枷」等による「自白」を強いる「威嚇法」が行われていた。
詐病の拡大
しかし、現実には戦局が悪化するに従い詐病によって軍務を免れようとする兵士は増えていった。日中戦争初期のころは、患者たちの間では、一日も早く原隊復帰を望む声が多かったが、戦場が泥沼化するにしがたい原隊復帰が間近に迫った患者たちの間で仮病を使う人が増え、さらには脱走を試みる疾病兵まで現れるようになった。
神経痛や関節炎の詐病は、その判定が難しいため多かった。軍医たちの間では、神経痛と言えば詐病を連想する傾向があった。
海軍病院でも、退院を拒み入院を長引かせるように苦心惨憺する兵士であふれていた。そのころ「欲しがりません勝つまでは」という標語をもじって「出たがりません勝つまでは」というのが入院患者の共通の合言葉だった。
戦力を大きく削ぐ皮膚感染症
戦病については、疥癬、白癬(水虫やたむし)などの皮膚感染症も深刻な問題だった。このような皮膚感染症は「カイカイ病」と呼ばれ、泥と汗にまみえる戦場では、かからない者がほとんどいないくらいであった。
海軍の場合も、真水の搭載が制限された小艦艇では、入浴は不可能であり、洗濯もほとんどできなかったため、皮膚感染症の兵士が多く発生し、乗員の半数に及んだ。ただし、船内での「真水の支給」に関しては、将校と下士官・兵士に大きな差別があった。
さらに、この皮膚感染症は、敗戦後に復員兵が地域に持ち帰り大流行を起こした事例がある。


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