『続・日本軍兵士』 吉田 裕 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
4 日独伊三国同盟締結と対米じり貧 第2章 日中全面戦争下 —拡大する兵力動員
今日のところは「第2章 日中全面戦争下」の第4節「日独伊三国同盟締結と対米じり貧」である。日中戦争が生きずまるなか、日本は日独伊三国同盟を結び、英米と対立する。これにより、物資の供給がじり貧になり、最終的にはアジア・太平洋戦争へと進んでしまう。それでは読み始めよう。
日独伊三国同盟とじり貧になった日本
ドイツの快進撃を目の当たりにした日本は、日独伊三国同盟を結び武力南進政策が決定された。これには日中戦争の行き詰まりの影響がある。陸軍はドイツ・イタリアとの同盟によってアメリカを牽制しつつ、東南アジア諸地域に侵攻し、日本の戦略的体制を強化して日中戦争の行き詰まりを打開しようとした。そして、それには東南アジアの石油などの資源の獲得という狙いがあった。
しかし、日本は戦争経済が石油などの資源や軍需品、工作機械などを米英から輸入していたため、新たな困難をもたらした。英米は軍需品を事実上輸出禁止とし、さらに石油の輸出も禁止した。
アメリカからの石油に大きく依存していた日本経済は、衝撃を受け、石油を絶たれて国力がじり貧になる前に、開戦を決意すべきという主張が大勢をしめ、対英米戦争に突入した。
中国戦線に釘付けにされ続けた陸軍
ここで著者は、陸軍の地域別兵力の図を示している。
それによると、連合軍の反攻が始まった一九四二(昭和一七)年時点で、中国戦線に二九%、対ソ戦に備えて満州に二九%の兵力が配備されていて、米英の戦場である南方戦線の配備兵力は二一%にすぎなかった。中国が抗戦を続けていたため陸軍の二割から三割は中国戦線に釘付けとなっていた。
そして、このころから第二国民兵まで招集の対象となるなど、兵士の体格・体力の低下が進んでいた。
アジア・太平洋戦争の広大な戦線を支えなければならなかったのは、こうした「弱兵」たちだったから、彼らの負担には苛酷なものがあった。次章ではこの問題を中心に見てみたい。(抜粋)
コラム③ 軍人たちの遺骨
ここでは、海外で戦没した軍人たちの遺体の処理についてまとめられている。
戦没者の遺体
日清戦争まで、外地で戦没した軍人の遺体は現地で土葬している。戊辰戦争や西南戦争などの内戦の場合も同様であった。日露戦争後に転換があり、戦没した軍人の遺体は現地で火葬し、遺骨を日本国内に返還することが基本原則となった。満州事変から日中戦争の時期になると、遺骨が国内の留守部隊まで返還されると部隊層が行われ、出身地においても盛大な公葬が行われた。
ところが、日中戦争が長期化し戦闘が激しくなると、遺体を火葬する余裕が無くなり、死者の手首や指だけ切り取り戦闘終了後のそれを焼いて国内に還送することが一般的になる。
さらに、アジア・太平洋戦争が始まり、戦局が悪化すると、遺体を戦場に遺棄するようになった。
こうした遺体の火葬、内地への遺骨の還送が困難になると、遺族は、遺骨の扱いが粗略になったとして不満を募らせた。(抜粋)
また、「空の遺骨箱」は、遺族に戦争の虚しさを実感させた。
戦後の遺骨収集事業
敗戦後、日本は長い占領時代を経て独立するが、日本政府は財政上の制約もあり、海外に遺棄されている遺骨の収容に消極的であった。しかし、遺骨の収容を求める世論に押されて、政府は一九五二年から五七年にかけて、遺骨収集事業を実施する。ここで政府は一部の「象徴遺骨」(その地域の遺骨を代表する遺骨)を収容したことで、遺骨収集事業は終了したとみなした。
しかし、遺族会や戦友会の反発のため、一九六七から七二年に第二次遺骨収集事業、七三年から七五年に第三次遺骨収集事業が実施される。
その後、「補完的遺骨収集」という位置づけで、事業が進み、二〇一六年には「戦没者遺骨収集の推進に関する法律」が制定されたが、遺骨収集事業はほとんど進んでいない。
この、遺骨収取事業で収集対象の遺骨は、軍人・軍属だけであり民間人は対象外である。
厚生省によれば、海外戦没者概数(沖縄、硫黄島を含む)は、約二四〇万名、収集遺骨概数は、二〇二三年末までで約一二八万体、未収容遺骨概数は約一一二万体である。


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