『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
六 友人の説得(前半)
今日から、「六 友人の説得」にはいる。苦難に陥ったヨブのもとに三人の友人が訪ねてくる。ここでは、まず最初の人であるエリパズについて書かれている。エリパズは伝統的な賞罰応報的な神学的な立場を述べている。さらに著者は、ヨブ記の主題でもある人生の矛盾や不合理という問題を最初に取り扱った予言者エレイヤであるとし、この問題について、旧約聖書でどのように取りつかわれたかを概観する。
「六 友人の説得」は”前半“と”後半“にわけてまとめるとし、”前半“では、友人エリパズの説得を、そして”後半“では旧約聖書では「人生の矛盾、不条理をどのように取り扱っているか」の問題について取り扱う。
エリパズと賞罰応報主義
ここより、ヨブの発言に対する友人の最初の人、エリパズの話となる。
エリパズは、ヨブが幸福のときの様子について述べる。
見よ、あなたは多くの人を教えさとし、
あなたの言葉はつまずく者をたすけ起こし、
かよわいひざを強くした。(四ノ三、四)(抜粋)
ヨブは、傷ついた者、悩む者を助け、それが順境な時に日常だった。そしてその根拠は、彼が豊かな財産を持っていたとか、仕合せな家庭の人だったかと言うことにとどまらない。
もう一つ「あなたが神を恐れていることはあなたのよりどころではないか、あなたの道の全きことはあなたの望みではないか」(六節)ということである。これを直訳すると「汝の恐れは汝の頼みではないか、汝の望みもまた汝の道の全きことではないか」となる。(抜粋)
ここで「汝の恐れ」=「神に対する恐れ、すなわち信仰」、「よりどころ」=「信頼、確信、希望など」である。ヨブの信仰にヨブの確信があり、それが彼の希望の源であったのである。さらにそれは彼の「道」すなわちその生活の全きことだというのである。
そして、エリパズは、ヨブの生活の根拠が信仰であり、その財産も幸福な家庭もこの源から出ているのに、それを失ってしまうと、源泉自体も見失ってしまうのは、どうしてかと問うた。
ところが今このことがあなたに臨むと、
あなた耐え得ない。
このことがあなたに触れると、あなたはおじ惑う。(四ノ五)(抜粋)
著者は、これはエリパズの激励であるとしている。
そしてエリパズは、言う。
考えてもみよ、だれが罪のないのに、
滅ぼされた者があるか、
どこに正しい者で立ち滅ぼされた者があるか。
わたしの見たところによれば、不義を耕し、
害悪をまく者はそれを刈り取っている。(抜粋)
ここでエリパズは、神は正義に対して公平で、善には報い、悪には罰すると主張している。つまり、信賞必罰の応報主義が語られている。この原則はある意味で聖書全体を一貫している。
義と愛、律法と福音の関係
ここで著者は、キリスト教での律法と福音の関係について言及している。
一般に旧約は義の宗教、新約は愛の宗教といわれている。しかし新約の愛は無差別な仏教的な愛とは異なり、また旧約も時に神の愛を教えている。この義と愛の関係は、律法と福音の関係ともいえる。キリスト教は律法の宗教ではないが、福音は律法を乗り越えたものとされる。そして、福音からかけ離れた律法は無意味であると共に、律法を切り捨てては福音は成り立たない。
マルティン・ルターが信仰の自由を強調したが、その自由は一面律法からの自由と言うことが重きをなすが、他面、律法への自由ということがその中に含まれている。
実は真の意味で律法が全うされるためには人間が一度律法から解放されなければならない。しかし律法に死することは律法に生きるためである。そうでなければ人間は自ら進んで律法を守り、それを行うという自由を持つことはできない。何故なら強いられて律法に従うというのでは律法は全うされないからである。しかしこのことは決して律法が無意味なものになっていしまったということではない。(抜粋)
エリパズの賞罰応報主義と人生の矛盾・不合理
このようにエリパズの神学的立場は、伝統的な賞罰応報主義であり、他の二人の友人ビルダデ、ゾバルの言葉も原則的に同じである。
しかしこれにヨブは容易に同意できなかった。義が勝ち、悪が常に敗れるならば、ヨブも同意できたが、現実にはその逆の場合が多い。
ヨブ記では、この人生の矛盾、不合理を問題にしている。


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