苦痛による救い(その3)
浅野 順一 『ヨブ記 その今日への意義』より

Reading Journal 2nd

『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

一三 苦痛による救い(その3)

今日のところは「一三 苦痛による救い」の“その3”である。前回“その2”において、エリフの説教には、苦難の中に「鍛錬」「浄化」という救済的意義があるということが解った。しかし、それはヨブの問題を根本的に解決する力とならない事が示される。そしてそれに続いてエリフの説教の第三の問題「仲保」についてである。それでは、読み始めよう。

鍛錬や浄化はヨブの問題の解決にならない理由

前回“その2”にでは、エリフの知恵苦難の中の「鍛錬」「浄化」という救済的意義、が示された。しかし、それでは、ヨブの問題を根本的に解決する力にはならない

なぜならば、「鍛錬」は、弱い人を強くすることであり、「浄化」はけがれた人を清くすることでであって、人間本質の根本的な改造とはいえないからである。そして「鍛錬」や「浄化」は、厳密に言って倫理的な問題であり、宗教的な問題でないからである。

ヨブは、エリフの説教について何も答えていない。それは、その言葉を到底納得できなかったからである。

何故ならば苦難に耐える人間の力には限度があるからであり、その限度以上の圧力を支えることは不可能である。そこに人間の力の代わりに神の力が新たに導入され、人間が自己の力に絶望し、神の力によって新しく生きるという転換が起こって来なければならない。(抜粋)

根本的解決としての復活

ここで著者は、第二イザヤ書の言葉を引用する

年若い者も弱り、かつ疲れ、
壮年の者も疲れはてて倒れる。
しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、
わしのように翼をはってのぼることができる。
走っても疲れることがなく、
歩いても弱ることはない。(イザヤ書四〇ノ三〇、三一)(抜粋)

ここの「力を新たにする」=「力を交換する」であり、人間の力に神の力が代わることと解せられる。つまり、換言すれば新しき己に死し、新しき己に甦ることである。また、これを新約でいえば「己が生命を失う者はこれを得る」(マタイ福音書一〇ノ三九)である。

しかし、ヨブの問題はそこまで徹底した根本的解決を与えられていない

エリフの説教の限界

著者は、エリフの説教は、肉体だけに重視し、それを受ける体質や体力を考慮していないとしている。そのため、これも他の三人の友人と同じように「無用の医師」に他ならないと言っている。

今ヨブの必要としているものは、体質の改善と体力の増強であって必ずしも鍛錬陶冶でないからである。現に重病の彼は身心共に全く癒されねばならぬ状態にある。(抜粋)

エリフの説教の第三の問題

ここよりエリフの説教の第三の問題・「仲保」についてとなる。エリフは言う。

もしそこに彼のためにひとりの天使があり、
千のうちのひとりであって、仲保となり、
人にその正しい道を示すならば、
神は彼をあわれんで言われる。
「彼を救って、墓に下ることを免れさせよ、
わたしはすでにあながいを得た。
彼の肉を幼な子の肉よりみずみずしくならせ、
彼を若いときの元気に帰らせよ」と。(三三ノ二三 – 二五)(抜粋)

「仲保」は、旧約聖書の他のところで「通訳者」「使者」と訳されている。さらに内容においては、「仲裁者」「(天にある)証人」「(高き所にある)保証人」ことに「贖う者」と通じている。

「仲保」は、神と人の間に立ち両者の仲立ちをするものであり、「天使」天的存在である。この「仲保」の仲立ちにより、死に臨まんとするヨブは、神によって救い出されると言うことである。

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