『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
一三 苦痛による救い(その2)
今日のところは「一三 苦痛による救い」の“その2”である。第一三章は、4人目の友人エリフの説教についてである。前回“その1”では、エリフの説教の部分の成立や他の三人の友人との違いが説明された。エリフは、経験による知恵でなく、霊的直観、すなわち神からの霊感による知恵を告げるという。
これを受けて、今日の部分は、「経験による知恵と霊感による知恵」に違いについてである。それでは、読み始めよう。
第一、「高ぶり」の罪
前回“その1”において、エリフの知恵は、他の友人三人の経験による知恵とは違い、霊感による知恵であることが語られた。ではその、経験の知恵と霊感による知恵の違いは内容的にどうであるか。
エリフは、人間が最も警戒しなければならない罪は「高ぶり」であると言っている。
彼(神)は人々の耳を聞き、
警告をもって彼らを恐れさえ、
こうして人にその悪しきわざを離れさせ、
高ぶりを人から除き、
その人の魂を守って墓に至らせず、
その命を守って、つるぎに滅びないようにされる。(三三ノ一六 – 一八。なお三五ノ一二、三六ノ九参照)(抜粋)
この「高ぶり」という語は、ヨブ(一九ノ五)、エリパズ(二二ノ二九)も触れているが、エリフはもっとも強調している。
ヨブは、どれほど神に呼びかけても、神が答えてくれないと嘆いているのは、彼の高ぶりによると言っている。
彼らが叫んでも答えられないのは、
悪しき者の高ぶりによる。(三五ノ一二)(抜粋)
ここで「彼ら」=「悪しき者」=「ヨブ」である。
エリフはヨブが自分が神より正しいと考えていること、つまり高ぶりが問題であると考えている。そして謙虚にならなければ救われないと思っている。
第二、苦難にある救済的意味
第二に、エリフによれば苦難は苦難それ自身の中に救済的意義を持つということである。(抜粋)
エリフのいう救済的意義とは「鍛錬」「浄化」であり、必ずしも厳密な意味で贖罪的救済ではない。
神は苦しむ者をその苦しみによって救い、
彼らの耳を逆境によって開かれる。
神はまたあなたを悩みから、
束縛のない広い所に誘い出された。
そしてあなたの食卓に置かれた物は
すべて肥えた物であった。(三六ノ一五、一六)(抜粋)
ここでの「逆境」は、「苦難、圧迫、迫害」と同じ意味であり、要するに「苦難」である。そして、その苦難は、人間を鍛錬するもの、浄化する力であると言っている。
ここで著者は、同じような見方が、イザヤ書にあるとしてそれを紹介している。
見よ、わたし(ヤーウェ)はあなた(イスラエル)を練った。
しかし銀のようにではなくて、
苦しみの炉をもってあなたを試みた。(四八ノ一〇)(抜粋)
この見方では、
人間の原罪は高ぶりにあり、その傲慢は人生の艱難、苦悩によって打ち砕かれ、謙虚にされる。そこに救いがあるとうのである。(抜粋)
また、申命記などで、エジプトからヤーウェによって救い出されたへブル人の四〇年の放浪は、神による訓練の時間と考えられている。神はイスラムの民を選んだ(選民)が、それだけでは、カナンの地に入りそれを「嗣業」を受け継ぐ資格はなく、へブル人がなかなかカナンに侵入できなかったのは、信仰的な立場からすると神の訓練の時間であったことになる。申命記は
「この四十年の間、あなた(イスラエル)の着物はすり切れず、あなたの足にはれはなかった。あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。あなたの神、主の命令を守り、その道に歩んで彼を恐れなければならない。それはあなたの神、主があなたを良い地に導き入れられるからである。」(八ノ四 – 七。なお四ノ三五、三六参照)(抜粋)
と書かれている。
エリフの説教はいささか、道学者的な臭味がなくはないが、前述の如く他の友人に比較する時、苦難をもって神が人間を鍛錬し、浄化する方法であるとみている点においてその特色があるといえよう。(抜粋)

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