『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
一三 苦痛による救い(その1)
今日から「一三 苦痛による救い」である。前章、「一二 聖書と自然」(”その1“、”その2“、”その3“)では、ヨブ記のもう一つの問題である自然との関りが考察された。そして本章では、またヨブ記の本筋にもどりエリフの説教(三二 — 三七章)について、それまでの三人の友人との違いとその意味について考える。
第一三章は、3つに分けてまとめることにする。それでは、読み始めよう。
新たな登場人物、エリフ
ヨブと三人の友人との間に何度も論争があったが、その最後にエリフという新しい人物が登場する。しかし、エリフとヨブは論争をするのではなく、ただエリフの演説であり、それは説教というべきものである。
この説教はその基本においてヨブの他の友人のいうところと変わらないのであるが、なお二、三の特色がある。(抜粋)
このエリフという名であるが、「彼は神である」もしくは「神は彼である」という意味である。そして、そして著者は、彼はへブル人であるとみなされるとしている。
エリフの説教部分は、ヨブ記の他の部分より迫力が足りず、ヨブ記が一応構成されてから挿入されたものであるという見方が多い。
エリフの登場と他の友人たちとの違い
エリフの説教の内容は、基本的には他の三人の友人の言うところと同じである。
神は断じて悪を行うことはなく、
全能者は断じて不義を行うことはない。
神は人のわざに従ってその身を報い。
おのおのの道に従って、
その身を振りかからせる。
まことに神は悪しきことを行われない。
全能者はさばきを曲げられない。(三四ノ一〇 – 一二)(抜粋)
このように基本的に賞罰応報主義、仏教的にいえば因果応報主義である。
しかし、エリフは他の友人が触れていない二、三の問題に触れている。そのため、他のヨブ記に比べて冗長な文章であるが、やはりヨブ記に入れるべきものである。
最初にエリフが怒りだす場面がある。エリフが怒った理由は、
- 「ヨブが神よりも自分が正しいことを主張するので」(二節)
- そのヨブを友人たち三人が説得し、悔い改めさせることができなかった(三節)
である。
エリフは、年長者である三人の友人に遠慮して沈黙を守っていたが、その忍耐の緒を切らし、一言せざるを得ざるに至った。
わたしは年若くあなたがたは年老いている。
それ故、わたしははばかって、
わたしの意見を述べることをあえてしなかった。
わたしは思った、「日を重ねた者が語るべきだ、
年を積んだ者が知恵を教えるべきだ」と。(三二ノ六、七)(抜粋)
しかし人生の経験が必ずしも知恵を教えるものでなく、三人の友人はヨブを説得できなかった。
しかし人のうちには雲があり、
全能者の息が人に悟りを与える。
老いた者必ずしも知恵があるのではなく、
年とった者必ずしも道理をわきまえるのではない。
ゆえにわたしは言う、「わたしを聞け、
わたしもまたわが意見を述べよう。」(抜粋)
エリフの「わが意見を述べる」という部分の直訳的には「わが知恵を告げる」である。エリフは全能者の息が知恵を与えると主張し、いわば霊的直観、すなわち神からの霊感による知恵を告げるというのである。


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