聖書と自然(その2)
浅野 順一 『ヨブ記 その今日への意義』より

Reading Journal 2nd

『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

一二 聖書と自然(その2)

今日のところは、「一二 聖書と自然」の“その2”である。第一二章は、ヨブ記のもう一つの問題である自然との関りである。前回“その1”において、聖書における自然の記述は、通常人間を通して記述されていることが論ぜられた。

そして、ヨブ記は旧約聖書の中で最も多く自然を語っている。今日のところ”その2“は、ヨブ記及び一般に旧約聖書では、自然をどのようにとらえているか、そしてそれは日本での自然とその関係と違いについてである。それでは読み始めよう。

ヨブ記の中の自然

前回の「旧約聖書の中で最も多く自然を語っているのはヨブ記ではないか」という言葉に続き、ここからヨブ記での自然の記述の問題が取り扱われる。

ヨブ記には自然に関する名称が植物、動物、気象、天体等において多く使われていて、旧約聖書で一番豊富であると思われる。

聖書全体の関心の重点は自然ではなく、人間であり、その歴史であるが、ヨブ記においては人間はもとより重大な問題であるけれども同時に、作者の目が自然にも向けられていると称してもよいであろう。(抜粋)

次に、ヨブ記での人間と自然との関係を考察する。

あなたが滅びと、ききんとを笑い、
地の獣をも恐れることはない。
あなたは野の石と契約を結び、
野の獣はあなたと和らぐからである。(五ノ二二、二三)

ここで「野の石と契約を結び」とあるように、聖書においては自然と人間はそのままでは融和せず対立関係にあることが関係している。

この対立関係はパレスチナが砂漠という「砂漠的風土」にあることによる。詩篇には

主はあなたを守る者、
主はあなたの右の手をおおう陰である。
昼は太陽があなたを撃つことはなく。
夜は月があなたを撃つことはない。
主はあなたを守って、すべての災いを免れさせ、
またあなたの命を守られる。
主は今からとこしえに至るまで、
あなたの出ると入るとを守られるであろう。(詩篇一二一ノ五 - 八)(抜粋)

ここで「右手」は人間の力をあらわし、砂漠においては、神が人の右手を覆うことなくては生きられないということである。

そして詩篇は、さらに

わたしは山に向かって目をあげる。
わが助けは、どこから来るのであろうか。
わが助けは、天と地を造られた主から来る。(詩篇二一ノ一、二)(抜粋)

と続く。

要するに旧約の世界においては自然と人間は直接一つにはなり難い。創造の神が両者の中に入り、その仲立ちをすることによって始めてそれが可能となる。(抜粋)

つまり、人間と神が契約を媒介して始めて自然と人間は融和的な関係となる。ヨブ記の「野の石と契約を結ぶ」とは、このことを指している。さらに「わたしはわたしの目と契約を結んだ、どうして乙女を慕うことができようか」(三一ノ一)も同じことを言っている。

アラビアの風土と日本の風土

アラビアの風土は人間に対して厳しく、それは日本の風土とは非常な相違がある。日本でも台風や地震、洪水などの災害があるが、大体において自然は人間に対して温かい。日本のような風土では、自然と人間は根本において同質であり、そこに厳しい対立は生まれない。

著者は、このことが自然科学では、明治以前に体系的、組織的に発達しなかった理由であるとし、また、反対に美的感覚に鋭く、芸術的国民と云われ、宗教と芸術の結びつきが強くなっているに関係があると言っている。

さらに文化の比較として日本では徳富蘆花の言葉にあるように「自然と人生」あり「自然と文化」ではなかった。今まではそれでよかったが、これからはそれでよいかという問題があると著者は指摘している。

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