『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
一二 聖書と自然(その1)
今日から、「一二 聖書と自然」に入る。である。前章「一一 宗教の益」では、ヨブ記や他の旧約聖書などを通して「宗教の益」について深い考察がなされた。本章「一二 聖書と自然」では、ヨブ記のもう一つの問題である自然について論じられる。
第一二章は3つに分けてまとめることにする。まず”その1“では、ヨブ記の二八章と箴言の知恵賛歌に現れる知恵の記述を解説し、知恵と自然との関りから、聖書における自然は通常、人間を通して語れていることを論じている。それでは読み始めよう。
知恵の詩、ヨブ記二八章
ヨブ記における今一つの問題に移ろう。それは自然ということに関してである。(抜粋)
ここでは、まずヨブ記の二八章を取り上げている。この二八章はヨブ記で独立していて、後に挿入された可能性もある。章全体が「知恵」を歌った長い詩である。
二八の一二に「知恵はどこに見出されるか。悟りのあるところはどこか」といわれているが、この言葉はもう一度二〇節に繰り返され、さらにこの章の冒頭にも元来あった言葉であるという見方もある。(抜粋)
二八章の前半には鉱山の作業について歌われている。
くろがねは土から取り、
あかがねは石から溶かして取る。(二八ノ一、二)(抜粋)
人間は地下から金、銀、銅などの鉱石を掘り出すが、人間以外の動物はそれがどこにあるか知らない。
しかし、真の知恵は、金、銀、銅などを掘り出す人間でも、どこに見出すか分からず、そして、知恵はどんな宝石よりも価値がある。
ここに「知恵」とは箴言などにいわれている真の知恵であり、それは神を恐れることによって始めて与えられる知恵であり、「知恵のはじめ」「知恵のもと」は神への恐れ、すなわち信仰にある(一ノ七、九ノ一〇。なお詩篇一一一ノ一〇)。(抜粋)
ヨブ記にも「知恵」「悟り」という語が繰り返され、二八章は、
「見よ、主を恐れることは知恵である、
悪を離れることは悟りである」と。(二八の二八)(抜粋)
箴言の知恵の賛歌
ここで著者は、箴言の知恵の賛歌として有名な八ノ二二 — 三一を引用している。
主が昔そのわざをなし始められるとき、
そのわざの始めとして、わたしを造られた。
いにしえ、知のなかった時、
始めにわたしは立てられた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、
わたしはそこにあった。
彼が上に空を堅く立たせ、
淵の泉をつよく定め、
海にその限界をたて、
水にその岸を越えないようにし、
また地の基を定められたとき、
わたしはそのかたわらにあって名匠となり、
日々に喜び、常にその前に楽しみ、
その地で楽しみ、
また世の人を喜んだ。(抜粋)
ここで「わたし」は知恵のことである。そして「知恵」は「名匠」となり神の天地創造に参与している。
このように人格化された知恵は後にヨハネ福音書における「言」(ロゴス)となり、「始めに言あり、言は神と共にあり、言は神なりき。この言は始めに神と共にあり、すべてのものはこれによって成る」ということになる(一ノ一 – 三)。そしてその「言が肉体となる」とき、それがイエス・キリストだというわけであり(一ノ一四)、ここにロゴスの先在説と称せられる神学がある。(抜粋)
この「知恵」は、本来は人間に関わるが、自然にもかかわっている。つまり「箴言」八章での天地創造、そして「ヨブ記」二八章の鉱山、鉱石、宝石との関係である。
聖書と自然の関わり
そこで一体旧約、広くは聖書全体から自然がどのように考えられているかという問題が生ずる。すなわち天地、自然が聖書の中でどういう位置を占め、如何なる意義を持つかということである。(抜粋)
まず創世記は、天地創造から語られる。第一章で神が天地自然を造り、第二章から人間の歴史が始まる。天地創造は人間の歴史の序言ということができ、これが聖書学者、神学者がいう神の救済史の序説である。
このように聖書では、人間の歴史が枠になってその中に歴史が語られる形となっている。
それは、予言者の場合でもおなじでありイザヤ書では、
わたし(ヤーウェ)は海をふるわせ、
その波をなりどよめかすあなた(イスラエル)の神、主である。
その名を万軍の主という。
わたしはわが言葉をあなたの口におき、
わが手の陰にあなたを隠した。
こうして、わたしは天をのべ、地の基をすえ、
シオン(エルサレム)にむかって、あなたはわが民であるという。(イザヤ書五一ノ一五、一六)(抜粋)
と言っている。天地を創造する神はイスラエルの歴史を創造する神であり、自然を動かす神は歴史を動かす神である。しかし、その重点は自然ではなく、歴史である。
このことは新約でも同じで、自然が語られるときも、その重点は自然ではなく人間である。
自然が、やや自然そのものとして語られているのは詩篇のあるものとヨブ記ではないだろうか。(抜粋)

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