ヨブを贖う者(前半)
浅野 順一 『ヨブ記 その今日への意義』より

Reading Journal 2nd

『ヨブ記 その今日への意義』 浅野 順一 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

一〇 ヨブを贖う者 (前半)

今日のところは、「一〇 ヨブを贖う者」である。「九 人の道と神の前」前半“、”後半”では、著者が『ヨブ記』の一つの峰であるとする第一三章が取り扱われた。ここでヨブは、友人との論争を離れ「神と論ずることを望む」といった。そして、自身の信仰に対して「わたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう」と宣言している。

そして今日のところ「一〇 ヨブを贖う者」は、次の大きな峰である一九章を取り扱う。この章は内村鑑三がヨブ記の中心に置いている。ここでは、ヨブを「贖う者」が中心となる。そして、ヨブは、この贖う者は神であり、生きている間に必ず地上に現れると確信をもって臨み焦がれる。

第一〇章は、2回に分けてまとめるとする。それでは読み始めよう

「隠れた神」

前章においてヨブ記の大きな峰である第一三章の要旨と問題点を論じた。そして、それに付け加えることがあるとすれば、とし著者や次の文を引用する。

わたしのよこしまとわたしの罪がどれほどあるか、
わたしのとがと罪とをわたしに知らせて下さい。
なにゆえあなたは顔をかくし、
わたしをあなたの敵とされるのか。(一三ノ二三、二四)(抜粋)

ここでヨブは、神の顔が見えないと言っている。そして見えたとしても、怒った神の顔である。

この神は、いわゆる「隠れた神」である。旧約でもヨブ記のほか、申命記、イザヤ書にでてくる。さらに、宗教改革者ルターが強調しているものである。

神は今、ヨブに対して顔を隠している。そしてその隠れた神がもう一度彼に対してみ顔を現わす。その時までヨブは苦しみを続けていかなければならない。(抜粋)

この神は怒りの神であると共に憐みの神でもある。その神はヨブに顔を現わさない。

このような神による打撃と傷を受けた者が「包み」と「癒し」を受けるにためには不抜の忍耐を必要とする。(抜粋)

宗教の意味と山師的治療

ここで著者は、宗教の意味について問いている。

そもそも宗教とは人間の不幸を解決する即効薬、またそれを忘却させる麻痺剤の如きものであろうか。聖書の信仰はむしろ我々に人間の問題を一層深く掘り下げさせ、その焦点を一層明確にさせるものではないか。(抜粋)

ここで著者はエミリヤが偽りの予言者を批判している一節を引く

彼らは手軽にわたしの民の傷を癒し、平安がないのに、「平安、平安」と言っている。(六ノ一四、八ノ一一)(抜粋)

この偽りの予言者の治療は表面的で傷や病の深部には至らない。注解者のブライトが「山師的治療」呼ぶようなものであり、現実回避であり、危機忘却である。

ヨブ記、聖書を研究するということ

そもそもヨブ記を研究し、その意義を十分に汲み尽くすことは至難の仕事だと称してもよいであろう。語学的にも、文学的にも、思想的にも非力な者にはまことに厚き壁の如くである。(抜粋)

著者は、ここでヨブ記を読む、いや聖書を読むことの難しさについて語っている。

我々が聖書に問うということは聖書に問われることである。(抜粋)

そして、聖書という言葉の鏡の前に立ったとき、平安を与えられ勇気づけられる前に、自分の醜さ、虚しさ、惨めさが映し出され、自己への失望と不安が感じると言っている。そしてそれが聖書を味読するということであるとしている。

先に人間一人一人の心には穴が開いているということについて述べた。聖書の信仰は偽りの予言者の如くその穴を手軽に癒すものではなく、その穴をはっきりと我々に意識させ、その深さ、大きさに目を開かせるものではあるまいか。ヨブ記を学び、その充分な理解が困難であればあるほどこの書から問われている自分を発見する思いがする。(抜粋)

(ここで「心の中の穴」については、ココを参照。)

ヨブの人間性

ここまでで第一三章の解説を終え、ここより『ヨブ記』大きな峰である第一九章に入る。

内村鑑三は、『ヨブ記』を新約の『ロマ書』ともに最重要としている。そしてこのヨブ記の中心を第一九章においている。ここはまた、この書のプロローグ、エピローグ(ココ参照)に次いで最も知られている箇所である。

ヨブは、友人に対しても神に対しても、はなはだ頑固である。しかし、そんなヨブでも孤独の立場に長く立つことは耐え難い

わたしを知る人々は全くわたしに疎遠になった。
わたしの親類および寂しい友はわたしを見捨て、
私の家に宿る者はわたしを忘れ、
わたしのはしためたちはわたしを他人のように思い、
わたしは彼らの眼には他国人となった。
わたしがしもべを呼んでも、彼は答えず、
わたしは口をもって彼に請わなければならない。
私の息はわが妻にいとわれ、
わたしは同じ腹の子たちにきらわれる。(一九ノ一三 - 一七)(抜粋)

ヨブは忌み嫌われるようになってしまう。そして、わずかに生命をとどめているという状態になり、

わが友よ、わたしを憐れめ、わたしを憐れめ、
神のみ手がわたしを打ったからである。(一九ノ二一)(抜粋)

と憐みを友人に訴える。

この懇願について著者は、一三章において友人を厳しく批判したヨブの言葉とは到底思えないとし、

しかし我々はそこにヨブの人間らしさ、彼のむき出しの人間がよく表現されていると思う。(抜粋)

と言っている。それに続いて著者は、次のようにヨブ記の課題を指摘している。

ヨブの頑固さ、その自己主張は実にこのような弱い、みじめな人間、その同じ人間から発せられた声と見ることができるのではないか。強くあると共に弱くある。そこにヨブの人間性があり、その人間性において彼は人間を語り、神をさえ語っているのだと思われる。そのような人間と神とは一体どのようなかかわりがあるか、それがヨブ記の課題であると見ることができよう。(抜粋)

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