『ポピュリズムとは何か』ヤン=ヴェルナー・ミュラー 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第二章 ポピュリストがすること、あるいは政権を握ったポピュリズム(その1)
今日から「第二章 ポピュリストがすること、あるいは政権を握ったポピュリズム」に入る。第一章では、ポピュリズム、ポピュリストの概念が袋小路に陥ることが示され、そして著者によるポピュリズムの定義とそれによる解釈が述べられた。それを受けて第二章は、「ポピュリストが彼らの理念を実践に移すとき、何が起こるか」についてである。第二章は、7つに分けてまとめるとする。それでは読み始めよう。
ポピュリストが政権を握った時
ポピュリストは、腐敗したエリートと道徳的な同質な人民の間の対立を想像し、その人民の象徴的な代表として、自分たちが統治していない汚い政治的現実と闘いを演じる。そのため、ポピュリスト政党は、何よりも抗議政党であり、自ら統治はできないと考えがちである。またポピュリストが政権につくと彼のカリスマ性は失われ「魔法が解ける」という見解もある。さらに、ポピュリストの単純な処方箋は現実不可能ということがすぐに露見するだろうと考えがある。
政権を握ったポピュリストはいずれにせよ失敗するに決まっているという見解は、慰めにはなるだろう。しかし、それもまた幻想である。(抜粋)
ポピュリストは、エリートに対し抗議するものだが、彼らが政権についても、舞台裏で動くエリートを想定し、多くのポピュリストは自らを犠牲者のように振る舞い続ける。政権に就いたポピュリストは、人民を二極化に分裂させ続け、ある種の黙示録的対立を人民に覚醒させる。彼らに敵が不足することはない。
ポピュリストはしきりに危機を演出する。それは彼らの統治を正当化する。そして彼らは「人民に近いこと」を審美的に演出する。
ヴィクトル・オルバーンは、毎週金曜にハンガリー・ラジオでインタビューを受け、チャベスは有名なテレビショー「こんにちは大統領」の司会を務めていた。
このような演出は、現代では全ての政治家に必須となった広報活動であるが、
しかしながら、ポピュリストがまさに固有の統治テクニックを用いていること--- そしてこれらのテクニックが、ポピュリズムの核心的炉クックからして道徳的に正当化されうるということ --- もまた事実である。(抜粋)
政権を握ったポピュリストは、自らが人民の正当な代表であること、一部の人民のみが真正な人民であること、そしてその人民のみが支持に値し、善き統治に値するという議論をよりどころとする。
著者は、ポピュリズムのこのロジックは次の三つの形になりうるとしている。
- 国家のある種の植民地化
- 「大衆恩顧主義」および「差別的法治主義」
- 市民社会の体系的な抑圧
こうした実践はポピュリストだけのもので無いが、ポピュリストに特徴的なのは、それらをきわめて公然と行うことである。
国際舞台は、ポピュリストが自らを民主主義者と主張する絶好の機会である。国際舞台で、ポピュリストによる実践をありのまま暴露されても、彼らは適切な民主主義の概念を実行していると主張するだけで、あまりダメージにならない。
このあたりを読むと『「モディ化」するインド』に出てきたモディ首相の行動は、政権を握ったポピュリストの行動であることがよくわかる。
『「モディ化」するインド』では、モディ首相の突出した露出を「ワンマンショー」として捉え、それはモディという人物がモディ首相を演じていると論じていた。これは、つまり「国民に近いこと」を効果的に演出しているということだろう。そして、モディ政権で行われているイスラム教徒の弾圧は、まさにここの3つの要素を含んでいるのである。(つくジー)
関連図書:『「モディ化」するインド』湊 一樹 著、中央公論新社(中公選書)、2024年
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