エルンスト・H・ゴンブリッチ 『若い読者のための世界史』
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
三七 海の向こう
鉄道と蒸気船の発明は、世界を小さくした。海をこえてインドや中国に旅することは、もはやいのち知らずの冒険ではなくなった。アメリカは、となりになった。それゆえわたしたちも、一八〇〇年以後の世界の歴史をヨーロッパ中心にみることはできない。(抜粋)
この章の冒頭で著者はこのように言っている。そう、第37章は、ヨーロッパから離れ、中国、日本、そしてアメリカについてである。
中国
一七〇〇年代の中国は、それまでの中国とほとんど変わっていなかった。ときおりイエズス会の宣教師がキリスト教の布教のために来ると中国の皇帝は友好的に迎えた。また、ヨーロッパの商人も中国の磁器を手に入れるために訪れた。しかし、中国皇帝や市民たちは自分たちの文化は、ヨーロッパ人のそれをはるかにこえるものと思っていた。
やがて、蒸気船に乗ってやってきたイギリス人は、中国に危険な毒であるアヘンを持ち込んだ。アヘンの危険性を知った中国政府一八三九年にその輸入を禁止する。
するとイギリスは蒸気船に大砲を乗せてやってきた。彼らは都市を砲撃し、うつくしい宮殿をがれきと灰に変えた。中国はばくだいな賠償金とあらゆる品物の無制限の取引を許可しなければならなかった。
その後、ヨーロッパ人は太平天国の乱を支援し諸都市を攻撃する。そして一八六〇年に北京侵攻した。
これが、紙の製造、コンパスの使用、そして残念ながら火薬の製造もおしえてくれた中国人へのヨーロッパ人の返礼であった。(抜粋)
日本
このころ、島国日本でも中国とにたような状況が起ころうとしていた。日本は天皇あるいはミカドがすべての上に立っていた。しかし、日本は中国のように広大で平和で穏やかな国ではなかった。一八五〇年ごろ弱小の領主たちが天皇の名のもとで、国土の強力な所有者に戦いを挑み再び天皇に力を与えようとしていた。そして二〇〇年以上も外国に扉を閉ざしていた日本に外国から使節がやってくる。
日本は、中国と同じ運命をたどるかに見えた。しかしその間に、強者に対する革命が成功していた。天皇(ヨーロッパではミカドとよばれる)が、いまやすべての権力をにぎっていたのだ。(抜粋)
天皇は、この国を外国から守るために古い文化を守りながら、ヨーロッパの最新の発明だけを学ぶ必要があると考え、外国人に国を開いた。そして、数十年の間にヨーロッパのあらゆる技術を身につけると、ヨーロッパ人をていちょうに扉の外に締め出した。
日本人は、世界史のもっともすぐれた生徒であった。(抜粋)
アメリカ
そのころアメリカでも大変なことが起こっていた。アメリカは、一七七六年にイギリスから独立し、自由な合衆国を作っていた。
南の暑い州では、移民たちは広大な農地を手に入れアフリカから買われてきた黒人の奴隷が働いていた。そして、北部では、規模が大きい農家や都市が発達し、奴隷の必要はなかった。そして、ほとんどが敬虔なキリスト教徒であった北部の州の市民は、古代の異教徒のように奴隷を持つことは、基本的人権の原則の上に築かれた合衆国にとって恥ずかしいことだと考えた。
一八二〇年、ひとつの妥協案がつくられた。地図の上に一本の線がひかれ、その南部の州では奴隷制を認め、その北側では禁止するというものであった。(抜粋)
この奴隷経済はしだいに恥ずかしいものとなった。そして、それに立ち向かう大統領エイブラハム・リンカーンが現れた。彼は一八六一年に大統領にえらばれると南部の州は合衆国からの離脱と奴隷州だけの連合を決意した。
おそろしい、血なまぐさい内戦になった。そしてけっきょくは、北部の州が勝利をおさめた。
一八六五年リンカーンは、解放された奴隷たちに歓呼のなか、南部連合の首都に入った。その十一日後リンカーンは、観劇中にひとりの南部人に暗殺された。しかし彼の仕事は、成しとげられた。ふたたび統一された、自由なアメリカ合衆国は、やがて、世界でもっともゆたかでもっとも有力な国のひとつになった。(抜粋)
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