『餓死した英霊たち』 藤原彰 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第一章 餓死の実態 – 4 インパール作戦
補給を無視した作戦の例として著名なのは、一九四四年にビルマ方面軍が行ったインパール作戦である。戦況の不振、戦力の枯渇が目立つ四四年になって、どの点からみても成算の可能性のないインド領への大挙侵攻を計画するなど、無謀と言うほかない作戦が、第十五軍司令官牟田口廉也中将の功名心から実行されたのである。(抜粋)
本節、インパール作戦は、このような文章から始まっている。まずは、この無謀な作戦が、どのように経緯をもって実行されることになったかを解説している。
インパール作戦とは、ヂャドウィン大河を渡り、インドとビルマの国境のアラカン山脈を越え、インドのアッサム州に侵入しようという作戦である。この作戦の経路は、大河と密林と山脈で交通機関はない。移動も制空権を連合国側に握られているため、昼間の移動は困難であり、また道路もガソリンもないため車も使用できない状態であった。そして、兵站線を確保する見込みは最初からなかった。
補給に関してまったく無計画であったため兵站を担当する参謀が懸念を示したが、
軍司令官牟田口中将は、補給担当の参謀の懸念を一喝し、象や牛、馬、水牛の収集と調教を命じた。これらの動物に荷物をつけて運び、用がすんだら殺して食べるのだというのだった。牟田口中将はこれを義経の鵯越へや、ハシニバルのアルプス越えにたとえて得意になっていたという。(抜粋)
このような無謀な作戦がなぜ行われたかについては、その直属の上司が河辺正三ビルマ方面軍司令官だったことが大きい。
牟田口と河辺の二人は、一九三七年七月の盧溝橋事件のときの支那駐屯第一聯隊長と支那駐屯歩兵旅団長として、戦争開始の責任者仲間である。(抜粋)
(盧溝橋事件に関してはココも参照)
そのため、二人の間には、強い信頼関係があった。
また、牟田口には、自分がきっかけを作った盧溝橋事件が拡大して最終的に大東亜戦争まで広がってしまった、この作戦を成功させれば国家に対して申し訳が立つという思いがあったという。
この作戦はとても無謀であるため、多くの異論があった、しかし河辺はつねに牟田口を擁護した。反対する参謀は、罷免され、大本営でも作戦を危険視する意見が多かったが、結局、人情論に押し切られ作戦は、裁可されてしまった。
著者は、この牟田口中将を次のように強く非難している。
三人の隷下師団長全員を罷免して作戦を強行した牟田口軍司令官は、戦後になってもその正当性を主張しつづけ、莫大な部下の犠牲者を出したことの責任を感じてはいないようである。猪突猛進型の司令官の典型である。盧溝橋事件の最大の責任者といえるのも、現場の一木清直大隊長(ガダルカナルの一木支隊長)にたいして、「断乎攻撃せよ」と命令した牟田口聯隊長であった。強硬論、責任論が、つねに常識論、消極論を圧倒する事を体現してきた軍人が牟田口なのであった。(抜粋)
(ガダルカナルに関してはココ参照)
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