「ニューギニアの第十八軍」(その2)
藤原彰『餓死した英霊たち』より

Reading Journal 2nd

『餓死した英霊たち』 藤原彰 著 
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一章 餓死の実態 – 3 ニューギニアの第十八軍 (後半)

ニューギニアの投じられた日本軍は、連合軍の圧倒的な攻撃のためジャングルのなかを補給もない中、転進を余儀なくされた。そして、その転進の間に多くの餓死者が出た。

連合軍はマッカーサー大将が「蛙飛び作戦」「飛び石作戦」と名づけた作戦で日本軍を追い詰めていった。この作戦は、日本軍が密林の中を徒歩で移動している間に、その後方の要点に上陸し日本軍を迎え撃つというものである。
ニューギニアの地形は、広いジャングルのなかに狭い平地が飛び石のように点々と存在し、それはまるで樹海の中に孤島があるようなものだった。連合軍側はこの孤島を圧倒的な海空戦力を使用して飛び石に移るように移動していた。

しかし、日本の大本営は、ニューギニアを陸地と考えていた。第十八軍は、飛び石の間を陸続きと考えて密林の中の行軍を続け、飢えに倒れて行ったのである。(抜粋)

日本軍がアイタベに兵力を集結した時は、米軍の飛び石作戦のため、完全に米軍の後方に取り残されてしまい、船での補給は完全に遮断されていた。そのため、日本軍には飢餓と熱帯病が襲いかかってきた。

一九四四年に連合軍は、兵站基地のあったアイタベ、海軍などの基地があったホーランジアに上陸した。そのため、日本軍は西方に向かって後退することになる。

西方に追いやられた日本軍は、完全に敵中に取り残され、補給はと絶える。しかし、大本営は積極的に攻撃して、可能ならばホーランジアを奪回せよと命令している。

そして、 第十八軍司令官安達中将は、このままでは全軍餓死するよりほかはないので、軍の全力でアイタベを攻撃する決心をした。(抜粋)

この時点で、大本営もホーランジア、アイタベ奪還は無理と判断し、ウエワク付近で自活させることにした。

ところが、第十八軍司令官安達中将は、座して餓死を待つよりは玉砕の道を選び、アイタベ攻撃の決心を変えなかった。その後も困難をきわめた転進をつづけてアイタベにたいする攻撃を実行したのである。(抜粋)
困難な条件の中で死力を尽くした攻撃に失敗した後の第十八軍の運命は悲惨そのものであった。アイタベ攻撃に全力を使い果たして、ようやくウエワクとその南方地区に兵力を集結した第十八軍の三個師団は、多くの疾病兵を抱えている上に、すでに七月で食料は尽きていた。しかも敵の後方に取り残される形となったため、以後の補給の見込みは完全になくなった。それだけでなく、米濠連合軍による攻撃に晒され、それから一年間の地獄の苦しみを味わくことになる。(抜粋)

このあと、ウエワク付近での第十八軍の様子を、大塚邦彦少将の回顧録『飢餓戦死』からの引用などを元に書かれている。

第一八軍の死者十慢人のうちの九割の九万人が飢餓による死者だったと書かれている。

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