『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』 若松 英輔、小友 聡 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第三章 「時」を待つ (その1)
ここから第三章に入る。第三章の題名は「「時」を待つ」だが、これは書名の『すべてのには時がある』に対応している。そして、それは「コヘレトの言葉」にある有名な「時の詩」に由来するので、この章はかなり重要な章であるとみた!まずは、「時の詩」の解釈について語っている。
(第三章は非常に長いので、3つに分けて記録する)
二人は、「コヘレトの言葉」にある有名な一節「時の詩」について語り始める。
この「時の詩」には、戦争を彷彿させる言葉も多くあり、背景に当時の戦争や争いがある。それを受けて若松が、
(若松)その文脈で現代の私たちが読むと、個々の人生とは、ある意味では戦いだともいえるのだと思います。戦いとは、誰かと実際に戦うことではなく、自分の人生と向き合うことです。(抜粋)
と語る。そして、さらに「時の詩」の最後の一節を引用している。
私は、神が人の子らに苦労をさせるよう与えた務めを見た。神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。(抜粋)
この一節を受けて、小友は
(小友)これはコヘレトの不思議な論理です。神が「時」を定めたにもかかわらず、人間はその「時」を摑むことができない。そこに深い真理があります。「時」は確かにあるんです。しかし、その「時」を人間は摑むことができない。摑もうとするとすると指の間から零れ落ちてしまう。そういう不思議さ、それが「時」の真理だとコヘレトは教えているのだと思います。(抜粋)
そしてこの摑めなさについて若松はこう語っている。
(若松)いま、お話になられた「摑めなさ」というのは非常に大事な点だと思います。たとえば私たちが絶望を感じているときには、自分で自分の人生のことがわかったような気になる。しかし、コヘレトが、「生きよ」というのは、人生には永遠なる未知と言うべき部分があることを、私たちに教えようとしているからだと思うのです。(抜粋)
この「摑めなさ」は、神の支配に身をゆだね安心して生きよとのコヘレトのメッセージである。コヘレトは自分で自分の人生に納得することを戒めている。人生は自分で納得できるような小さい世界で人生を決めずに、自分の意志だけでなく圧倒的な力で生かされている。だから生きることの是非を自分だけで考えて決めてはならないと戒めていると語っている。
ここで話は、「時」という用語に移る。まず新約聖書(ギリシャ語)で時は、「クロノス」と「カイロス」という二つの用語がある。「クロノス」は、われわれが普通に時間と言っている時計で測れる「時」である。これに対して「カイロス」は時計では計れない永遠にもつながる「時」である。この「時」はヘブライ語で「エート」であり、「クロノス」と「カイロス」両方の意味を持っている。
(小友)いま若松さんがいわれたように、「クロノス」は量的な時間ですね。つまり、時計で測ることができる。他方、「カイロス」は、人間が掴めない「時」です。だから「時」は、時計では測ることができない。「カイロス」は一瞬であり、また同時に永遠でもある不思議な「時」です。これは、神がそこに介入する「時」である、ということもできます。(抜粋)
「クロノス」を水平軸とすると、「カイロス」は垂直の軸になり、このようなことを考えると「時の詩」の意味合いは深まる。「クロノス」はどんどんと過ぎ去っていくが、「カイロス」の出来事は過ぎ去らずむしろ昇華してしまう。このような「一瞬の時」が人生を決めてしまう。コヘレトのいう「時」はこのような時である。
このような過ぎ去らない「カイロス」的な時は、その意味をもう一度捉え直すことができる。それは私たちに希望を与えてくれると若松が語る。それを受けて小友は、
(小友)「時」というものは確かにある。その「時」がいつかはわからにけど、必ずあるんだ。そのことは希望につながりますよね(抜粋)
ここの「時の詩」をめぐる対話は奥が深いように思った。確かに未来は神さま(仏さまでもいいけど)の領域で、決して明かされることはない。そう思えば、人間が勝手な思いで未来を悲観したりしても仕方ないって事ですよね。小友は、「コヘレトの言葉」は、どんな状況になっても「生きよ」と教えてくれると言っていて、ここで語られていることはそういうことだと思う。前に「死んだ獅子よりも生きている犬のほうが幸せ」という話があるけども、死んじゃったら・・・・どうにもならんよね。(つくジー)
コメント