「価値」が反転する書(前半)
若松英輔、小友聡『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』より

Reading Journal 2nd

『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』 若松 英輔、小友 聡 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一章 「価値」が反転する書 (前半)

「はじめに」が終わって今日から対談に入る。「コヘレトの言葉」関連の書をすでに2冊読んでいるので、内容はだいたいわかっているが、重複を怖れずに、新しい記述を逃さずに、まとめていこうと思う。
『それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」』、『コヘレトの言葉を読もう』を読了)

今日のところ前半は、「コヘレトの言葉」という文書の紹介である。まずは題名の「「価値」が反転する書」という意味について解説される。そして、次回の後半では、旧約聖書の概説とその中での「コヘレトの言葉」の位置についての解説である。


まず対談の最初に、旧約聖書の一編である「コヘレトの言葉」について、それがどのような書なのかについて語っている。この書について、旧約聖書を繙いたことがある人でも知っている人があまり多くないが、実は、聖書の有名な言葉のいくつかは、この書の中にあるとしている。また、「コヘレトの言葉」のコヘレトは、ヘブライ語の「コーレス」で「集会を司る人」「人を集める人」という意味である。

ここで、若松がカトリックの哲学者のガブリエル・マルセルの言葉を引用する。

(若松)彼は劇作家でもありました。最晩年に彼は親しい友に「私の哲学作品は大陸だ。演劇は島々だ。だがね、親しい友よ---秘密は島々にあるのだよ」と語りました。(『道程』服部英二訳、理想社)。私たちが探しているのは、いわゆる「本島」ではなくて、離れた、あるいは隠れた小島にあるということです。(抜粋)

これと同じように、旧約聖書も同じように「創世記」や「予言書」のようなよく知られた文書に真実があるわけでなく、「コヘレトの言葉」のような周辺と思われる書の中に実は深い意味がある。

この後、この対談で二人が伝えたいことを以下のように語っている。
まず若松は、今日が、これまで見なくても考えなくてもよかったものを無視できない危機の時であるとし、これまでと違う「言葉の杖」が必要であるということを語ったのち、

(若松)危機の中でにあって、私たちが探そうとしているのは希望です。これまで希望は、きらびやかな姿をしているように描かれてきました。でも、この「コヘレトの言葉」で描かれている希望は、私たちが予想しているものとは少し違う。より現実的な、ときには厳しい希望をはっきりと語っている。ある厳粛な現実にこそ希望がある。というようにも読めます。(抜粋)

と語り、そして、この若松の希望に対して、小友は、

(小友)これは「コヘレトの言葉」の最後のほうにある文章ですが、コヘレトは「朝に種を蒔き、夕べに手を休めるな」といいます。いま種を蒔いたって、それがいつ実を結ぶかは、誰にもわかりません。実を結ぶどころか、どれも実を結ばないかもしれない。それは、私たちにはまったくわからないことです。でもコヘレトは、それでも明日に向かって種を蒔けという。これは、諦めずに「それでも生きよ」というコヘレトの呼びかけなんです。
ここにコヘレトのメッセージがあると思います。そのことを、これからじっくりお話していきたいと思います。(抜粋)

のように語っている。

ここから話は「聖書を読む意味」という話になる。まず、クリスチャンにとっての聖書は、

(小友)クリスチャンにとっては、聖書は読むものというよりも、むしろ食べるものという感じがします。聖書に「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉があるように、クリスチャンは、神の口からでる一つひとつの言葉で生きているんですね。(抜粋)

と言っている。しかし、聖書はキリスト教以外の人の書物にもなっていくとしている。そして、内村鑑三、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治などが聖書から非常に影響を受けたことが語られる。そして若松は、

(若松)彼らはキリスト者とまったく違う。知識のために読んでいるというよりも、生きるうえでのぎりぎりのところで読んでいる。その姿勢には、とても学ぶことがあります。(抜粋)

といって評価している。そのような聖書の読み方は、いわば「受身の姿勢で読む」という読み方である。現代人は、能動的な生き方を考えがちであるが、創造的な受け身の姿勢で読むことが大切である。

(小友)神を信じなくても、わからなくても、いま自分は生きていることに気づくことができれば、同時に「生かされている」ことに気づくわけです。信仰がなくたって、いまをこのように生かされていることは恵みなんだと気が付くんです。(抜粋)

若松も「現代は、「生かされている」ということを見過ごしてきた」とし、この対談を通してその事を考えてみたいとしている。

「コヘレトの言葉」には、たくさんの矛盾がある。「人生は虚しい」といったかと思えば「人生には意味がある」という。神を信じていないように書いてありながら、「神を畏れよ」という。そのような矛盾は、実は矛盾ではないと小友はいう。

(小友)私は、この矛盾は、実は矛盾でないと考えています。それを私なりに解くのに二〇年近くかかりました。つまり、「人生は虚しいからこそ生きる意味がある」という解釈です。
重要なのは、ここに逆転が生じていることです。「人生は短い、だから生きていても意味はない」ではないんです。人生は短い、だからこそ生きようとする。コヘレトは逆説を語っている。これが私の「コヘレトの言葉」の読み方です。(抜粋)

それを受けて若松は、

いま、「逆転の発想」を提示してくださいました。この「逆転」というのは、いまを生きる私たちとって非常に重要な鍵になる言葉です。鍵語です。挫折、嘆き、あるいは悲しみ、苦しみ・・・そのような、私たちをさいなむものの中からこそ、宝石のような言葉が生れてくる。そう考えてみると、「コヘレトの言葉」には、私たちがいままで見たことのない「言葉の宝石」がたくさん転がっています。(抜粋)

と応えている。


関連図書:ガブリエル・マルセル(著)、服部英二(訳)『道程』、理想社

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