『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』 若松 英輔、小友 聡 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第五章 「言葉を」を託す (前半)
ここから最終章、「「言葉を」託す」に入る。前章、「「つながり」を感じる」は、共に生きるという現在どう生きるかという知恵であったが、ここでは、さらに「言葉」をどのように未来に託すか話である。
まず若松が最後のテーマは「種を蒔く」であるといって話を始める。「コヘレトの言葉」には「朝に種を蒔き / 夕べに手を休めるな」、つづいて「うまくいくのはあれなのか、これなのか / あるいは、そのいずれもなのか / あなたは知らないからである」という言葉がある。この言葉は一見矛盾しているが、その矛盾に大きなヒントが隠されている。
(小友)種を蒔いても、どの種が実を結ぶか誰にもわかりません。ひょっとすると、どの種も実を結ばずすべてが無駄になってしまうかもしれない。そういうことだってあり得るわけです。そうであれば、種を蒔いたって意味がないではないか、と考えがちです。
しかし、コヘレトはそうは考えません。その種が実を結ぶかわからない。だからこそ朝に種を蒔き、夕べにも手を休めるなというんです。ここにもコヘレトの逆転の発想が潜んでいます。(抜粋)
そしてこの言葉は、宗教改革者のマルティン・ルターの「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう」という言葉につながる。もし明日世の中が終わってしまったとすると今日リンゴを植えても植えた人はリンゴを食べられない。
(小友)つまりルターが見すえているのは、「次の世代」のことなのです。
・・・・・中略・・・・・
コヘレトも同じです。人生には悲観的に考えてしまうことがあるかもしれません。それでも、人間は積極的に生きることができます。「悲観的」と「建設的」を「それでも」でという言葉でつなぐことによって、矛盾する両者が矛盾でなくなるのです。ここに、コヘレトのこの言葉の究極のメッセージがあるのではないでしょうか。(抜粋)
若松は、この一節から「言葉の種子」という考えが浮かぶとしている。大学で教鞭をとっている時、いま種を蒔き十年後に花が開くかもしれない言葉を若者と分かち合いたいと思いるとしている。そして、曹洞宗の開祖、道元の『正法眼蔵』から一節を引用しその中の「愛語」という言葉について解説している。
(若松)他者を見て、慈愛の心が起きてこないと、愛語は生まれないと道元はいう。ここで大切なのは主語が人ではなく心であるということです。ここでの「心」は現代人が考える意識のことではありません。もっと奥にあるものです。そしてもう一つ大事なことは、乱暴な言葉を用いないということです。(抜粋)
道元は種を植えたいならば、悪しき種を植えないようにすることだといい、真に愛のこもった言葉を一人ひとりに投げかけることで、その人を救うことができるといっている。
(若松)これも、現代に置き換えて考えることができます。私たちは時代を変えていこうとするときに、「愛語」ではない言葉を使う傾向がとても強いと思うからです。それは、怒りの言葉であったり、恨みの言葉であったりする。でも道元は、そういう言葉でなくて、「愛語」こそが世の中を変えていくと語っている。この道元の「愛語」は「コヘレトの言葉」と深くつながるのではないかと思っています。(抜粋)
ここで小友も、哲学者の池田晶子の『あたりまえのことばかり』の一節を
死の床にある人、絶望のふちにある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である。(抜粋)
と引いていて、この言葉は道元のいう「愛語」に通じるとしている。この言葉は、鉄縛的に考え抜かれた言葉でなくても、患者さんの手を握って「一緒にいるよ」という沈黙の言葉でも良いとしている。
(小友)そしてコヘレトは、「へベル」である人生において、明日はない自分がなすべきことは、種を蒔くことなだという。そういう言葉を語ること、そういう言葉を他者に指し示すことが大切である。これがコヘレトの伝えていることだと、私は読みます。(抜粋)
ここまで「種を蒔く」という話から「言葉」をめぐる話になったが、ここからは蒔いた種の収穫についての話が語られる。まず小友が「種を蒔く」ことで、ルターの他に旧約聖書に出てくるモーセも思いだすという。モーセはイスラエルの民を導き「約束の地」カナンまでやってくる。しかしモーセは、約束の地にたどりつけぬまま亡くなってしまい、モーセの志を継いだヨシュアがイスラエルの民を率いてカナンの地にたどりつく。
(小友)つまり、旧約聖書にも、種を蒔いた人が必ずしも果実を刈り取ることができるわけでないことが書かれているんです。(抜粋)
若松は、コヘレトも自分の書いた言葉が、後世の人に影響を及ぼすなどとは考えてもみなかったのではとして、
(若松)ですから私たちは、自分の感じている意味においても、もっと謙虚であるほうが良いように感じているのです。自分が意味がないと思うから他人にも意味がないと思い込まないほうがいい。「意味」を自分の狭い人生の中だけで考えてしまうと、大事なものを見失ってしまう。自分が意味があると思っていることが、他人にとって意味があるとは限らないと同じように、自分が意味がないと思っていることが、ある人にとってはとても大事だということがあると思うんです。 つまり、私たちは自らが蒔いた種の未来を知り得ないことが多い。そうであれば、最初から諦めるのではなく、もっと種を蒔くことを試みても良いと思うのです。(抜粋)
と語っている。
これについては小友もアウシュビッツの収容所の話などの後に
(小友)なぜ、そのようなことをしたのか。それは、次世代の誰かがそれを見つけるからなんです。たとえ明日、自分の命に終わりが来ようとも、今日私はリンゴの木を植える。それでも種を蒔き続ける。それは悲観的であっても、ひたむきに建設的な、明日への希望につながる生き方なんだと思うのです。(抜粋)
と語っている。
関連図書:
道元(著)『正法眼蔵』岩波書店(岩波文庫)1990年
池田 晶子(著)『あたりまえのことばかり』トランスビュー、2003年
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