「つながり」を感じる (後半)
若松英輔、小友聡『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』より

Reading Journal 2nd

第四章 「つながり」を感じる (後半)

今日のところは第四章の後半。前半の「労苦」からの話につづき、「幸せ」や「つながり」の意味について語っている。


ここで、若松が、『クリスマス・キャロル』の話をする。この話の主人公、スクルージはお金をためることを喜びとする人物である。しかしそこに真実の喜びはない。

(若松)誰よりもお金持ちになりたいと思ってお金を数えている間は、それが喜びになるかもしれない。でも、『クリスマス・キャロル』も「コヘレトの言葉」も、それに否を突きつけます。
彼らが教えているのは、生きるための労働です。(抜粋)

そして若松はもうひとりハンナ・アレントという哲学者を紹介したいとして、彼女の『人間の条件』から引用する。

生命の祝福は、全体として、労働に固有のものであって、仕事の中にはけっして見いだされないものである。(抜粋)

ここでアレントは、「仕事」と「労働」という言葉を使い分けている。アレントにとって仕事は、何かを創り出すことであるが、労働はもっと私たちの生活の深く根差すものであり、「生きる」という労働にこそ生命の祝福があると考えている。たとえば病の中にいる人は、仕事はできないが「闘病」という「労働」をしている。

コヘレトも生きるための労働が大事で神からの賜物であるとしている。だから仲間に対して妬みを持ってしまうような労働は空しいといっている。

この「労働」というテーマは、新約聖書でも大事なテーマであるとして、新約聖書の「マタイによる福音書」の中にある「ぶどう園の労働者」についての話に移る。
この話は、主人が「朝早くに雇われる人」にも「日没直前に雇われる人」にも同じ賃金を払うという。そして、朝早く雇われた労働者が、自分たちは何倍も働いたと文句を言うと「わたしは最後に雇われた者たちにも同じ賃金を払ってやりたいのだ」と答えたというものである。
これは確かに不平等なことかもしれないが、労働の意味を深く教えている。大事なのは最後に雇われる労働者に対するイエス・キリストのまなざしである。
この話からは、神が私たちに与えるのは、お金のような「報酬」でなく、目には見えない「報い」であるということである。コヘレトもまた、「報酬」から「報い」の世界へ私たちを導いている。

次に若松が、「コヘレトの言葉」は、とても詩的であるといい、その一節「たとえ一人が襲われても / 二人でこれに立ち向かう。 / 三つ編みの糸はたやすく切れない」という一節引いて語っている。詩というのは「言葉で書かれていない何かを受取ることができる」ものであり、この一節では、本当の意味でのつながり、その「糸」は何かということであるとしている。若松はコヘレトはそれを神というだろうと語っている。

(若松)「つながり」とは、近くにあって、目には見えているものとのつながりだけでなく、離れていて目に見えていないものとのつながりも示している。自己とのつながり、他者との、あるいは死者とのつながり、そして神とのつながり。現代人は、時代の価値と深くつながっていますが、自分、他者、亡き人たち、そして神とのつあがりをあまり顧みなかったのかもしれないと思ったのです。(抜粋)

このつながりに関して小友は、コヘレトは「連帯」ということをよくいい、「共同体」を意識しているとしている。これは、当時の社会背景が関係していると解説する。これを受けて、若松は、コヘレトは「連帯」を強調しているが、それは「革命」ではないことが重要であるとしている。

(若松)「革命」とは、目に見える形で社会を変えていくものです。一方「連帯」とは、一見するとあまり大きな変化は起きないものです。そのような、過度の変化が起きない中でこそ、私たちの日々を確かに生きていける。これが「連帯」の意味だと思うのです。(抜粋)

そして、この「共生」「連帯」も新約聖書につながっているとして、小友が「ルカによる福音書」にあるイエス・キリストの「山上の説教」の話をする。この説教では有名な「貧しい人々は、幸いである」の言葉があるが、これは貧しい人々と連帯し共生して生きることを説いているとしている。そしてこれはコヘレトとつながる。これを受けて若松も

(若松)「連帯」を生きているとき、主語は、「私」ではなく、常に「私たち」です。お話をうかがいながら、コヘレトは、そのような個の生き方でなくて、個は個でありながら、他者とつながる道を指し示してくれているのだと思いました。(抜粋)

と応えている。

コヘレトは、他者と対話し共に生きる「共生」を勧めているとして、小友が「コヘレトの言葉」と同じく旧約聖書の知恵文学に属する「箴言」の言葉を紹介する。

私は二つのことをあなたに願います。 / 私が死ぬまで、それらを拒まないでください。 / 空しいものや偽りの言葉を私からとおざけ / 貧しくもせず、富ませもせず / 私にふさわしい食物で私を養って下さい。 / 私が満ち足り、あなたを否んで / 「主とは何者か」と言わないために。 / 貧しさゆえに盗み、神の名を汚さないために。(第30章7~9)(抜粋)

これは、一言で言えば「いまあるものに目を向けなさい」ということで、この「箴言」の一文は、「コヘレトの言葉」と根底でつながっている。

若松はこれに対して、私たちは満ち足りた存在なのだということですね、と応えている。そして、

(若松)私たちは完全性を不完全にしか開花できないという意味では不完全ですが、存在としては完全なのだと思います。ここに人間の尊厳がある。コヘレトは、私たちがそのような満たされた存在であることを、さまざまな角度から照らし出してくれている。(抜粋)

と語っている。


関連図書:
ディケンズ(著)『クリスマス・キャロル』新潮社(新潮文庫)2011年
ハンナ・アレント(著)『人間の条件』筑摩書房(ちくま学芸文庫)1994年

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