「画家として立つ」(その2)
坂口哲啓『書簡で読み解く ゴッホ』より

Reading Journal 2nd

『書簡で読み解く ゴッホ――逆境を生きぬく力』 坂口哲啓 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第2章  画家として立つ――ブリュッセル・エッテン・ハーグ・ドレンテ(後半)

クリスマスでの大ゲンカあと、ゴッホはまたハーグ戻った。ハーグでアトリエを借り、テオの援助を元に制作を始めた。そして、ゴッホは身重の娼婦シーンとその家族に出会った。はじめはモデルとして雇ったのだが、そのうちシーンの困窮に見かねて一緒に生活を始める。

生活に困っている女を救いたいという気持ちはもちろんだが、同時に、フィンセントには、ケーへの失恋や両親との不仲もあり、人のぬくもりを常に感じる生活への憧れがあったことも事実だろう。それに、彼に、彼の心のなかには両親や伯父たちは、さらには自分の気持ちを理解しなかったケーへの反抗心があった。彼らが属している良俗の世界から自分は外れてしまったが、今、自分が属している社会の底辺を構成する人々の世界のほうにこそ、人間の真実の姿があるのだ、という気持ちがフィンセントのなかにあった。(抜粋)

シーンとの暮らしは、ゴッホに家庭的な安らぎを与えたが、画家仲間のテルステーフの攻撃を受ける。テルステーフは、弟のテオやゴッホに絵の手ほどきをしていたマウフェにもそのことを伝えた。テオは、批判をうのみにしなかったがかといってゴッホの行動を認めはしなかった。マウフェは、しだいに冷淡となっていった。

この後に著者はハーグ時代のゴッホの絵、「肖像画」と「風景画」について多くの図面を用いて語っている。著者は、その肖像画について、その仕事をゴッホが鍛冶屋に例えている手紙の後で、

ここでフィンセントが、人物素描の仕事の大変さを鍛冶屋の仕事になぞらえているのは興味深い。彼は、書簡の別の個所で画家を鍛冶屋にたとえているのだが、彼にとって絵を描く仕事は、鍛冶屋が真っ赤に焼けた鉄を鍛えるように、汗水たらして取り組む力仕事なのだ。そして、その焼けた鉄が、「遂に軟らかみを帯びてくる」まで繰り返し鍛え上げる。彼にとっての人物素描はその果てしない努力の繰り返しにほかならなかった。(抜粋)

と語っている。

ゴッホはシーンとの生活で心の安らぎを得たが、しかし画家との人生との両立は難しいと感じるようになる。テオからの仕送りは少ない額ではなかったが、家族を養い画家を続けていくのはむずかしい。
そして、八月に入ってテオがゴッホのもとを訪れ、兄にシーンたちと別れることを勧告する。ゴッホは、迷った挙句にやはり画家として生きていくことを選ぶ。

フィンセントのハーグ時代を総括すれば、ケーへの失恋の痛手をシーンたちとの生活で癒し、かつ彼女らをモデルとして画業に励みながら、彼のなかには、家庭と画業を両立できるかもしれないという淡い期待があった。しかし、テオからの仕送りでその二つを維持し続けることは不可能だと悟ったとき、彼は、家庭を捨てて絵を取ったのである。これは別の言い方をすればフィンセントが、自分は家庭人として生きるのは無理であり、画業一筋で行くしかないことを肚の底から自覚したということでもある。(抜粋)

シーンたちと別れたゴッホは、ドレンテ地方に赴く。ゴッホは宿に泊まりながらドレンテ地方の風景とその地で生きる人びとをモチーフに画を描いた。その地での三カ月間に現在知られているだけで三十点ほどの作品を描いたという。

ここで、ドレンテ地方の出来事で著者が特に注目しているのは、テオに「画商を辞めて画家になれ」と勧めたことである。

まず、彼は、弟と自分とを異なる二つの世界に属する人間として分けて考える。弟は画商という商取引を生行とする世界に属し、自分は画家で絵を描く事を生業とする世界に属している。・・・・中略・・・・前者世界では、利益を上げたり地位を得たりするために、意図的に非道なこともやらざるをえない。後者世界では、難儀や苦悩や悲しみが常につきまとうが、そこでは善意と誠実さが基調になしている。多くの金を得ることも地位を得ることもない代わりに、自然と一体になった安らぎが満ち溢れている。(抜粋)

ゴッホは、このような二分法で考えていて、弟も因習尊重世界から抜け出すにはいい機会だと思っていた。ゴッホは、弟が稼いだ金の一部を使って画業を支えている現状を自分の理想と現実の矛盾を抱えて画業をしていたのだった。

そして、この自分の属する画家の世界と弟が属する商売の世界いう二分法は、田舎と都会という対立関係して意識されていると著者はいっている。ゴッホは、田舎での生活が理想の生活であり、都会での生活は人間の本来の姿を見失わせるとえていた。そして、それはゴッホと神との関係まで高められる。

田舎で、「手仕事」や「自然との交わり」をとおして人は、「自己改革」をやらなければならない。これこそが「神と共に歩くこと」であり、大都会で、利益や地位や名誉を追求したりする生き方とは正反対の生き方だ、とフィンセント言うのである。ここには、ゴッホという画家が何を目指して絵を描き続けたかを考える大きなヒントがある。画家である自分が、自然と自己の精神との深い交流のなかから作品を創造していく。その作業はそのまま自己を改革することでもあり、さらにそれは最終的には神とともに歩むことへとつながっていくのである。(抜粋)

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