「面白うてやがて悲しき……」(その2)
坂口哲啓『書簡で読み解く ゴッホ』より

Reading Journal 2nd

『書簡で読み解く ゴッホ――逆境を生きぬく力』 坂口哲啓 著 
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第4章  面白うてやがて悲しき……――パリ(後半)

ここからは、ゴッホと印象派の出会いとその仲間との交流、そして色彩への開花について書かれている。
ゴッホが始め印象派の作品に出合ったのは、一八八六年の(最終回)印象派展だった。この印象派の影響を示すために著者は、ゴッホが妹にあてた手紙を引用している。

「しかしただの一日であれば、ぼくはいまのべた二十人の(印象派の)画家は目にふれる一切のものを、画壇で名をはせている大家たちよりも見事に描けるのだ。こんなことをいうのも、ぼくと印象派と呼ばれるフランスの画家との間に、どれほど強いき絆が存在するか----またぼくが彼らの多くを個人的にしっており、彼らを愛していることを、きみにわかってもらいたいからだ。さらにそれのみか、ぼく自身の技法の上でも、ぼくは色彩について彼らと同じ考えをもっており、まだオランダにいるころから、もう彼らのことを考えていたのだ。」(書簡W4)(抜粋)

ゴッホは、色彩についての理論をニューネン時代にシャルル・ブランの本を読んで学んでいる。この理論効果を印象派の絵画により目の当たりにした。

ゴッホは、花をモチーフにした作品を集中的に描き、色彩理論を自分なりに応用し始めた。著者は、『花瓶と赤い芥子』、『2本のひまわり』の図版を用いてその色彩の効果を解説している。

ゴッホは、パリの街をあまり散策した形跡がないと著者は指摘している。しかし、その唯一の例外がアパートのあったモンマルトルである。ゴッホはモンマルトルの風景をいくつも描いている。著者は、ゴッホが描いた陰鬱な「ムーランド・ラ・ギャレット」と穏やかな、『ムーラン・ド・ブリュット=ファン』の絵を比較して、前者が”都市のモンマルトル“、後者が”田舎のモンマルトル“を表しているとしている。

モンマルトルは、パリという大都会がのなかで、都市が持つ暗い影の部分と、田舎がもつ明るい光の部分とが共存している稀有な場所なのだ。さらにいえば、都市という

人工の空間と、田舎という自然の空間との結節店にあたるのが、モンマルトルだということもできるだろう。この二つの異なる世界を同時に体験できる場所に住んでいたフィンセントは、パリのほかの場所に行く必要性をあまり感じなかっただろう。モンマルトルは、フィンセントにとって特権的な場所だったのである。(抜粋)

パリでゴッホは、自画像を二十八点描いている。ここで著者は、『灰色のフェルト帽をかぶった自画像』の図版をもとに、ゴッホの自画像について説明している。そして、このように言っている。

自画像を描くというのは、自分自身の内面を深く探る行為にほかならない。だが、それ以上に重要なのは、鏡に映る自分の顔を描き写すという行為が、内面探求の果てに、より、<高みにある何か>へと通じていることなのだ。その高みを<神>ということも<仏>ということもできるだろうが、フィンセントの場合、それは<自然>なのだ。(抜粋)

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