三国時代の詩人たち(前半)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一部 — 三国時代の詩人たち(前半) — 曹操、曹丕、曹植

今日のところは、「三国時代の詩人たち」である。非常に多才な曹操は、文学的才能にも恵まれ、多くの文人を集め文化サロンを作っていた。そして、曹操は、息子の曹丕そうひ曹植そうしょくと共に詩人としても名を残している

本章では、そのような曹操親子の詩人としての活躍について書かれている。本章は”前半“で曹操、”後半“で曹丕、曹植をまとめることとする。それで読み始めよう。

最初の詩人、曹操

曹操と建安文学

多才な人物であった曹操は、軍事家、政治家として超一流であったことはむろんのこと、軍中では書を読みふけり、みずから『孫氏そんし』の注を書くほど教養が高かった上に文学者としても傑出していた。

『三国志』「武帝紀」の裴松之はいしょうし注に引く『魏書ぎしょ』は、そんな曹操の姿を寸描して、「軍を指揮すること三十余年、書物を手から離すことはなく、昼は軍事的策略を考え、夜は経書けいしょやその注釈書に思いをこらした。高い所に登れば必ず詩を作り、新しい詩ができあがると、それを管弦に乗せ、すべてメロディーに合う歌詞となった」と称賛している。(抜粋)

曹操の周りには、孔融こうゆう陳琳ちんりん王粲おうさん徐幹じょかん阮瑀げんう応瑒おうとう劉楨りゅうてい建安七子けんあんしちしを筆頭に、大勢の文人が集まり、文学サロンを形成した。そして、曹操の息子、曹丕そうひ曹植うしょくも、そのサロンの重要な一員だった。

後世の文学者の憧憬しょうけいの的となった建安文学は、まさに曹操親子を中心とするこの文学サロンの中から、生み出されたものにほかならない。(抜粋)

建安文学の表現形式・楽府と五言詩

それまでの時代、前漢から後漢にかけての文学の主要ジャンルは長編の美文であるであった。これは、壮麗な宮殿・庭園・都市などを、知識を駆使し、難解な字句をつらねて、延々と称揚する表現形式である。宮廷文人によるこの表現形式は、ほぼ四百年に中国全土を統一した漢王朝にふさわしい表現形式だった。

しかし、建安の文人たちが選択したのは、楽府がふおよび五言詩だった。

彼らの選択は、中国文学史上に、画期的な転換をもたらした。(抜粋)

楽府は、前漢末ごろに発祥した表現形式で、はじめは作者不明の民間歌謡だった。それが、後漢末に新しい表現形式として知識人層の注目を集めた。さらに、激動の時代にふさわしい新しい表現形式として、楽府さらには五言を基調とした詩が現れた。

楽府も詩も、詠み人知らずの後漢末の段階では、内容自体にそれほど差異はない場合が多いが、いちおう楽府のほうは、あらかじめ定められたメロディを示すタイトルのもとで、歌われることを前提として作られ、詩のほうは純粋に読まれるものとして作られる、というのが、本来の区別だった。(抜粋)

そして曹操は、率先してこの新興のジャンルを取り上げて、個人の名のもとで詩篇を生み出す。そして、中国史上、最初の詩人としての栄誉を担った。

曹操のみならず、曹丕そうひ曹植そうしょく建安七子けんあんしちしを含む多くの文人が楽府、五言詩の創作に取り組み「建安の骨」と称えられる数々の作品を送り出した。

曹操の詩

そして曹操こそが、宮廷文学のから、新しいジャンルである楽府がふおよび五言詩へと転換をうながしたプロモーターだった。

清末に至るまで、詩が正当文学の地位を占め続けた中国文学史の流れを見るとき、曹操の果たした役割の大きさは測り知れない。(抜粋)

曹操の詩は、わずか二十四篇しか現存せず、すべて楽府である。そのほとんどは即興で酒宴などで演奏に合わせて歌われたと推定される。曹操の詩は、推敲を重ねて精緻な世界をえがく後世の詩と違い、戦闘の合間に、詩的感情の高ぶりにまかせて、一気に歌い上げられたものである。

「短歌行」と曹操の独走

ここで著者は、代表作の「短歌行」を引用している。これは、赤壁の戦い決戦を前にした曹操が、長江(揚子江)に浮かべた船の上で宴を催した際に、歌いあげたものであるとされている。

曹操はここで、人の命は限りあるもの、無常の人生に対する感慨は尽きないが、まず酒を飲んでうさをはらそう、と歌いはじめ、いんしえの聖人周公旦がいったん口にした食物を吐き出してまで訪問者と会い、人材を獲得しようとした故事に託して、政治家としての自らの抱負を示し、きわめて積極的な姿勢で歌いおさめる。(抜粋)

曹操以前の楽府の多くは、人生の無常を嘆き生命の有限を悲しむ、悲観的ペシミスティックなものであった。「短歌行」も本来は、人生の有限の嘆きを歌ったものだったとされる。しかし、曹操はこの詠嘆調を最後で「有限な命なればこそ、それを思う存分輝かせよう」と思いきりよく反転させた。そこに曹操の詩人としての独走がある。

こうして詩ははじめて、一般感情を歌う類型性から脱却し、詩人それぞれの固有の感情や思想を表現する形式へと移行したえたのだった。(抜粋)
「歩出夏門行」に見える曹操の気概

次に著者は、曹操の歩出夏門行ほしゅつかもんこうの第五首「亀の寿いのちながしといえども」の部分を引用している。

この詩では、神亀や龍でも、死の宿命を免れない、そうならば限られたその生を完全燃焼しようと歌い上げる。さらに、勇者は晩年になっても激しい気概を抱き続けるもの、人の運命を定めるのは天だけではない、という剛毅は気概を示している。

こうした発想は、人の戦闘意欲をかきたて、灰になるまで戦えと鼓舞してやまない。(抜粋)
曹操の詩の力強さと粗さ

曹操は、六十六で死ぬまで、天下統一を目指し、悪なく闘い続けた。曹操の詩に脈打つ力強さはそのような不屈の行動者曹操の内面に躍動するリズムである。しかし、その反面、即興で作られた曹操の詩篇に、力強さの裏返しとしての粗さや単調さが見られることも、否めない事実である。

こうした曹操の不十分さを補い、より精錬された感覚と表現力をもって、さらに完成度の高い詩的世界を築きあげたのは、息子の曹丕、曹植であった。(抜粋)

初出掲載誌:「歴史読本ワールド」九〇年七月、神人物往来社+「歴史群像」九三年二月、学研)

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