『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第一部 — 曹操をとりまく女性たちたち
今日のところは、「曹操をとりまく女性たち」である。曹操には、二十五人の息子がおり、その母として十四人の女性の名が伝わっている。しかし、このように多くの女性がいながら、曹操には女性にまつわるトラブルはない。ここでは、曹操の賢明な正夫人卞皇后と情熱的な前正夫人の丁夫人の話を中心にそうそうをとりまく女性たちについて語られる。それでは読み始めよう。
曹操と女性問題
『三国志』「魏書」武文世王公伝によれば、曹操には、二十五人の息子と、その母として十四人の女性がいた。之から見ても、曹操をめぐる女性が少なくなかったことは明らかだが、曹操は、特に愛する寵姫がいるわけでもなく、女性問題のトラブルはなかった。これには、すこぶる賢明な正夫人卞皇后の存在が大きかった。
卞皇后と曹操
卞皇后が曹操の正夫人となるのは、四十歳近くとなってからである。そしてそのころ長男、曹丕、三男曹植などはすでに生まれていた。もともと歌妓であった彼女は二十歳のときに曹操に見初められ側室となった。そのころ曹操は二十五歳、曹操は従兄弟の夫の事件の巻き添えとなり罷免され故郷に帰っていた。以降べ皇后は四十年に渡り曹操と苦楽をともにしている。
「董卓の乱」のとき、曹操は混乱の中で単身洛陽を脱出した。この時一緒に洛陽に来ていた卞皇后は、曹操死亡の誤情報のため部下が帰郷しようとしたところ「殿の安否はまだ不明です。今日国に帰って、明日もし生存しておいでになったら、合わせる顔がないではありませんか」とたしなめた。このことを後で聞いた曹操は感心し卞皇后への信頼を深めた。
危機を前にして動じない冷静さをもつ卞皇后は、天国と地獄を行ったり来たりする乱世の男曹操にふさわしく、度胸満点、みごとな乱世の女だったのである。(抜粋)
情熱的な丁夫人と卞皇后
卞皇后が側室になった時、既に曹操には丁夫人という正夫人がいた。この丁夫人には、子供がなかったが、別の側室である劉ふじんの子、曹昂と清河公王を、劉夫人が亡くなった後に自分の子として育てた。
しかし、曹操の後継者と目された曹昂が、宛城の戦いで負傷した曹操をかばって戦死してしまった。
すっかり落胆し、ヒステリックになった丁夫人は、曹操と会うたびに「私の子を殺しながら、平気な顔をしていらっしゃる」と責め立て、泣き叫んだ。曹操は丁夫人を実家返すが、折を見て実家を訪れ、気のおさまるのを待つことにする。しかし、丁夫人の気持ちは変わらず、結局離縁してしまう。そしてその後に卞皇后を正夫人とした。
この感情むき出しの丁夫人とは対照的に、卞皇后はあくまで聡明であった。(抜粋)
離縁後も丁夫人に挨拶を欠かさず、昔と同じくへりくだった態度を取り続け、その亡き後は、曹操に頼んでりっぱな埋葬までした。
これほど鮮やかにやってのけられては、さすがの曹操も顔負け、手も足も出なかったであろう。多くの女性を擁しながら、曹操にスキャンダルめいた話柄がないのは、たぶんこうした卞皇后の存在の威力が作用しているに違いない。(抜粋)
卞皇后の二人の子の争い
この卞皇后の実子の曹丕と曹植は、壮絶な後継者争いを演じることになる。卞皇后は、非常に曹植を可愛がっていたが、政治には口を出さず、曹操の死後、曹丕が皇帝になってからも異議を唱えることはなかった。
しかし、『世説新語』には、皇帝となった曹丕は、上の弟の任城王曹彰を毒殺した後、下の弟の曹植を殺そうとしたところ、卞皇后に「おまえは私の任城王を殺してしまいました。このうえ私の東阿王(曹植)を殺すことは許しません」と面罵したという、小説的エピソードが載っている。
他の女性の追随を許さない聡明さにより、曹操の唯一無二のパートナーだった卞皇后も、実の息子たちとの葛藤には、なす術もなかったのだから、権力の論理は実に非情きわまりないものである。(抜粋)
絶世の美女・甄夫人
卞皇后を悩ませた曹丕と曹植の争いの陰には、曹丕の妻で絶世の美女・甄夫人がいたという説がある。曹植と兄嫁である甄夫人の間に秘めたる恋が生じ、嫉妬した曹丕が曹植を死に追いやったという。
この甄夫人は、もともと袁紹の次男袁熙の妻であり、袁紹が曹操軍に滅ぼされたとき、いち早く居城に乗り込んだ曹丕がその美貌に魅せられて妻とした。このとき、かねてからその美貌の噂を聞いていた曹操も、大いに悔しがったというエピソードがある。
曹操が愛した武人たち
猛女だった先の正夫人・丁夫人と賢明だった卞皇后以外に曹操の周りには、これといった女性は浮かんでこない。これは、曹操が品行方正だったからではない。
曹操には、どんな美人よりももっと情熱を傾けて愛する対象が別にあったのだ。(抜粋)
そうそうは、関羽をはじめとして、誰よりも何よりも優秀な男が大好きだった。
その意味で、曹操にとって、女性はあくまで二次的な存在にすぎなかった。(抜粋)
初出掲載誌:「歴史群像」九三年二月、学研

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