曹操政権の成立 / 魏王朝と清流派 — 曹操と清流派(その5)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一部 — 曹操と清流派(その5) — もう一つの三国志

今日のところは「曹操と清流派」の“その5”である。前節“その4”では、荀彧をはじめとする清流派知識人と青州黄巾軍を吸収した曹操は、強力な政権を作ったことが語られた。今日のところは、その後、献帝を保護した曹操は政治的主導権を握る。中国は曹操の魏を始め蜀と呉の三国が分立する。そして、曹操の死後、魏は三国を統一し義王朝が設立される。それでは読み始めよう。

曹操政権の成立

献帝の後見人となる

曹操は、えん州を本拠地とし、呂布を追い払い洛陽に戻った。そして、細々と命脈を保っていた後漢の献帝を自らのもとに迎えた。これにより曹操は、他の群雄に対して、政治的な優位に立つ

曹操は、後漢王朝に対して、すこぶる慎重な姿勢を取っていた。その曹操が献帝の後見人となったのは、荀彧の勧めであった。

曹操にとって、献帝はとどいのつまり高貴性のシンボルとして、利用価値のある存在にすぎなかった。しかし、荀彧のほうは、政治的にも軍事的にも傑出した才能をもつ曹操が、献帝を[いただき後漢王朝を保持しながら、群雄割拠の戦乱状態をおさめる、救済者の役割を演じきることを願ったのだった。(抜粋)

清流派知識人は、宦官を攻撃し排除しようとしたが、後漢王朝じたいを否定する発想はなかった。それに対して黄巾は後漢王朝じたいの転覆をはかっていて、これが清流派と黄巾の決定的な分岐点だった。

そして、献帝を迎えた曹操は、都を洛陽から自分の勢力圏であるきょへ移した。

北中国の平定、「官渡の戦い」と袁紹との対決

曹操は献帝を迎え政治的に有利な立場に立ったが、この時点では、強大な軍事力を持つ袁紹の方が上であった。曹操は四年後の「官渡の戦い」において袁紹を打ち破り、そして七年後に北中国を完全に制覇した。

曹操は、政治戦略のみならず経済戦略も卓越していた。人の意見を良く聞き、良いと思えばためらわず取り入れる曹操は、ブレーンの棗祗うしの提案により、屯田とんでん制を実施し大成功を収めている。これにより戦乱で破壊された食糧体系を修復した。

「赤壁の戦い」と三国分立

北中国を平定した後、曹操は江南の制圧に向かった。しかし「赤壁せきへきの戦い」において孫権、劉備の連合軍に大敗し天下統一の夢は破れる。しかし、政治・文化の中心である華北を押さえ、天下の三分の二を支配する曹操の優位はびくともしなかった。

荀彧との衝突と曹操の死

曹操は老境に近づくと、自らの権力志向をあらわにし、最終的には清流派の魂を失わなかった荀彧と衝突する。

曹操は、魏公ぎこうに封じられ、九錫きゅうしゃく(功績のあった諸侯に対し、天子が賜る九つのもの)を受けることになったとき、荀彧は正面切って反対した。九錫を受けることは、明らかに禅譲ぜんじょうを射程に入れている行為だからである。これにより曹操の不評を買った荀彧は自殺に追い込まれた。

出身のいかがわしさを無化すべく、若き日の曹操は清流派知識人に認められることを願い、きわどい尾根道を歩みつづけた。乱世のまっただなかで、清流派のホープ荀彧とのめぐりあい、その献身的な協力を得たことは、曹操にとって望外の喜びであった。だが、功なり名をとげたとき、曹操の権力志向と荀彧の理想主義はもののみごとにすれちがい、悲劇を生んだ。(抜粋)

荀彧の死後、曹操は魏公になり、やがて魏王となり帝位にあと一歩のところまでくる。しかし、曹操は帝位につくことなくこの世を去った。

魏王朝と清流派

曹丕の即位と魏王朝の成立

曹操の死後九か月後に、曹操の息子、曹丕そうひは、あっさり禅譲の儀式を行い献帝を退位させ魏王朝を創設した。

この曹丕の即位を後漢王朝の伝統をもつ清流派が、もろ手をあげて歓迎するわけがない。(抜粋)

ここで著者は、曹操政権の重鎮である陳羣ちんぐんが、この即位に不快感を表したという逸話を紹介している。曹操政権は、その中枢に多くの清流派知識人がおり、彼らの中には、陳羣のように曹氏王朝に違和感を持つ者も多かった。

そんななかで、清流派の出身であるが軍事的才能に恵まれた司馬懿しばいが、クーデターを起こし実権を掌握する。

魏王朝の高官たちは、三代四人の司馬氏一族が謀略の限りを尽くして、曹氏の魏王朝を滅ぼしてゆく過程を平然と見過ごした。それどころか、彼らの多くは司馬氏の簒奪劇の共犯者となったのである。(抜粋)

その後、清流派司馬氏一族の西晋せいしん王朝は、やがて魏・呉・蜀の三国を滅ぼし、中国全土を平定する。

清流派知識人の末裔まつえいたちは、しだいに貴族化し、司馬氏の晋王朝が滅びた後も、王朝の興亡をよそに、華麗な文化の華を咲かせる六朝りくちょう名門貴族となった。

三国志世界は、とかくはなばなしい武力衝突に目を奪われがちであるが、このように、戦いのかげでひそかに進行した、政治の回り舞台、もう一つの三国志もまた存在するのである。(抜粋)

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