『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第一部 — 曹操と清流派(その3) — もう一つの三国志
今日のところは「曹操と清流派」の“その3”である。いかがわしい宦官の養子の息子という出自を持つ曹操(”その1”)は、宦官派と敵対する清流派知識人に引き立てられ出世する(”その2”)。その後、後漢の矛盾は頂点に達しいよいよ黄巾の乱が発生する。曹操は、正規軍として手柄を立て、その後に起こった董卓の乱にも立ち上がる。それでは、読み始めよう。
黄巾の乱から董卓の乱へ
黄巾の乱の発生
後漢が土台から崩壊し始めた時、貧困にあえぐ人衆の支持を受けた道教に一派の「太平道」の教祖張角が、数十万人の信者と共に蜂起する。「黄巾の乱」である。
この蜂起は、後漢政権に深刻な打撃を与えた。ここで、政権はまず「党錮の禁」を解き、清流派知識人を釈放した。弾圧により過激化した、清流派が黄巾の乱のリーダーと手を組むことを恐れたためであった。この事により、宦官派と清流派に妥協が成立し、清流派と黄巾軍は分断された。
後漢は、このとき正規軍を組織する一方、各地に義勇軍を募り、軍備を強化する。曹操は、このとき騎都尉に任ぜられ正規軍として戦い、黄巾軍を撃破し手柄を立てた。黄巾軍の主力軍が破れ、事態が安定化すると後漢王朝は論功行賞を実施し、曹操は、済南国の相(長官)に任じられた。
済南国の相となった曹操は、大ナタをふるい不正を摘発した。県知事の八割を罷免するなど「能臣」曹操として大いに活躍する。しかし、罷免された県知事たちは、中央の宦官や外戚と繋がっていたため、身の危険を感じた曹操は、自ら願い出て辞職、ふたたび儀郎となる。
そして、また東郡の太守(長官)に再び任命された。しかし曹操は赴任しても結局済南の時と同じことになり、宦官派と対立してしまうと考え病気を理由に故郷へ帰ってしまった。この時、曹操は、二十年後に世の中がきれいに治まってから世に出ても遅くはないだろと考え、故郷に戻って暮らし、書斎を立て、秋と夏は読書、冬と春は狩猟をして過ごそうと考えていたという。
しかし、時代は後漢王朝の崩壊に加速度がつき、またも政治の現場に復帰することになる。金城での返章と韓遂らの反乱のため、曹操は都尉に任命された。そして曹操は、袁紹らとともに首都洛陽の警備を指揮する「西園八校尉」の一人となる。
何進のクーデター計画
宦官派の言いなりになっていた暗愚な霊帝が死去すると、幼い小帝が即位した。そしてその小帝の生母何后の兄何進が実権を握ると、宦官派を一掃すべく司隷校尉の袁紹と手を組みクーデターを起こそうとした。しかし、宦官派と結びつきの強い何后が反対する。何進は、山西省に勢力を張っていた武将董卓を呼び寄せ何后を威嚇する。
この情報を得た曹操は、外部の武将を呼び寄せることの無意味さを指摘し、宦官を一掃しようとすれば計画が漏れると無謀な計画を嘲笑した。また袁紹や当時何進に仕えていた陳琳もまた外部勢力を呼び寄せることには反対であった。
しかし何進は、強引にことを運んだ。そして、曹操の危惧したとおり、宦官派にクーデター計画が漏れたため、先手を打たれた何進は、宦官派に殺されてしまう。すると袁紹が、宮中に乱入し一気に二千人以上の宦官を皆殺しにしてしまう。
こうして後漢王朝の二つの宿痾、外戚と宦官は共倒れとなり、きれいさっぱり消滅したのだった。(抜粋)
董卓の乱
そのような状況で獰猛な董卓が洛陽に現れる。彼はその混乱に乗じてあっという間に洛陽を制圧する。そして、少帝を退位させて、異母弟の献帝を傀儡皇帝として即位させ、独裁的な恐怖政治を始めた。
この時、袁紹と曹操は相次いで洛陽を脱出する。袁紹は根拠地の冀州を基盤に軍勢を集めた。曹操も陳留付近で軍勢を糾合し挙兵に備えた。
そして、袁紹を盟主に董卓討伐連合軍が結成される。この動きに警戒を強めた董卓は、洛陽を焼き払い長安に遷都してしまう。曹操は、連合軍が一致して董卓攻撃に取りかかるべきだと主張するも、袁紹を始めとした諸軍のリーダーがぐずぐずとためらう。
苛立った曹操は、自ら軍を率いて董卓討伐のために西に向かった。しかし、董卓の武将徐栄の軍勢にぶつかり敗れ、自身も負傷してしまう。ぼろぼろになり敗軍を率いて連合軍陣地にたどり着くと、連合軍は宴たけなわで、それを見て失望した曹操は、連合軍陣地を後にし、兵力を補給し軍勢を整えて河内に駐屯した。連合軍はその後、内部対立が激化し空中分解してしまう。
著者は、このような曹操の行動を誠に胸のすく爽快さがあると言っている。曹操には、「董卓の乱」により引き起こされた社会の荒廃を、粉砕したいというパトスがあった。そして、
この一事をもってしても、曹操はけっして単なる姦雄でなかったことが、明らかであろう。(抜粋)
と評している。

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