曹操の出自 — 曹操と清流派(その1)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一部 — 曹操と清流派(その1) — もう一つの三国志

今日から「曹操と清流派」に入る。本書は井波が寄稿した三国志関連の小文を集めたもの(ココ参照)であるが、本章「曹操と清流派」は、本書の書下ろしである。

ここでは、清流派知識人というベクトルを用いて曹操の生涯を追っている。そこに現れるのは姦雄曹操ではなく、清流派知識人と行動を共にした英雄曹操であった。

この部分は、5つに分けてまとめることにする。まずは曹操の出生の秘密からである。それでは、読み始めよう。


曹操(一五五 -- 二二〇)あざなは孟徳もうとく、幼名阿瞞あまん、数々の「姦雄かんゆう伝説」に包まれたこの人物は、その実、姦雄の属性と言うべきネチネチした陰険さとは、およそ無縁なパーソナリティお持ち主であった。(抜粋)

曹操の出自

宦官の養子の息子、曹操

曹操の出自は決して自慢できるようなものではない。彼の父曹嵩そうすうは大宦官曹騰そうとうの養子であった。

要するに曹操は、皇帝のまわりにベッタリと張りつく邪悪な存在として、人々から忌み嫌われる宦官の、あやしげな養子の息子だったわけだ。(抜粋)

後漢は、外戚(皇后の一族)と宦官が理念なき権力抗争に明け暮れた王朝だった。そして、後漢末、かん帝かられいてい帝の時代になると外戚との闘いに勝った宦官の専横がすさまじいものになった。曹操の養祖父もその宦官の大物として資材を蓄えた。

このような、宦官と結託する悪徳官僚や地方豪族に反発して、清流派とよばれる知識人のグループが形成され激しい抵抗運動を開始する。

党錮の禁、宦官と清流派の争い

かん帝が亡くなる前年、危機感を抱いた宦官派は「第一次党錮の禁」を発動し、清流派知識人を逮捕・処刑しその抵抗運動を抑え込もうとした。そして桓帝が亡くなると、皇后が霊帝を後継者とし、また外戚と宦官の争いが再燃する。主導権を握った外戚派が、清流派のリーダーの一人、陳蕃ちんばんと協力し宦官派に対してクーデターを起こそうとした。しかしこの計画は事前に漏れ、クーデターは失敗しまたしても宦官派の勝利となった。さらに宦官派は第一次をはるかに凌ぐ「第二次党錮の禁」を行い、清流派知識人を逮捕・処刑した。

こうして批判勢力を封じ込めた宦官派はもはや怖いものなしとなりその勢いは強まるばかりだった。皇帝の霊帝も救いがたい人物であり、これで完全に後漢王朝の基盤は堀崩れてしまった。

「贅閹の遺醜」、曹操のコンプレックス

曹操はこのように、後漢王朝が宦官によって蝕まれる過程で成長している。そして、宦官と直結した家系の出身であるということは、陰に陽に、曹操の意識形成に影響を与えた

ここで著者は、曹操が自身の出生の問題を糊塗ことするような、ケチな料簡でなかったことを示すために、曹操の出自を攻撃した檄文げきぶんを書いた陳琳ちんりんが後に捕虜として捉えられたとき、彼の立派な態度をみてその一件を咎めなかったという逸話を紹介している。

だが、歯に衣着せぬ陳琳がいみじくも喝破したようん、「贅閹ぜいえん遺醜いしゅう(いやらしい宦官の醜悪な子孫)」であることが、曹操の先験的なコンプレックスだったことは、まぎれもない事実である。このハンディキャップを乗り越え、なんとか見所のある人材として社会的に認知されたい。それが、若き曹操の最大の課題であり、願望だった。(抜粋)

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