『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
今日から第二部に入る。第一部は「魏に関連する七篇」であったが、第二部は「蜀と呉に関連する五篇」が集められている。最初は、呉の名参謀である周瑜の伝記である。ここでは、周瑜を中心として呉の変遷を追っている。
「周瑜伝」は、4回に分けてまとめるとする。それでは、読み始めよう。
呉の初代孫堅
若き孫堅
呉の孫氏政権の初代孫堅は、江東の小豪族の出身である。その頃、江東は漢民族の開拓地であったため絶えず土着少数民族の襲撃にさらされるような、荒々しい土地だった。
孫権は一七歳の時に、その並外れた腕っぷしの強さを示す事件が起こる。彼が父と船旅をしている時、海賊が奪った財貨を分配しているところに出くわした。すると孫堅は一人、船から降り、いかにも海賊たちを囲んでいるように合図を送った。すると、びっくりした海賊があちらこちらに逃げ出す。孫堅はその中の一人を打ち取り船へと戻ってくる。この海賊撃退事件で、孫権の勇名はとどろき、その腕と度胸を買われて、地方役人に任命される。その後も手柄をあげた孫堅は徐州諸県の丞(次官)を歴任する。
そして「黄巾の乱」が勃発すると、その討伐軍の指揮にあたった朱儁は孫堅を司馬に指名する。
孫堅軍の活躍
これより二八歳の孫堅は、自軍を従えて向かうところ敵なしの活躍をする。同時代に活躍をした劉備には、関羽と張飛という莫逆(決して裏切り裏切られない)の臣下がいたが、孫堅にも、程普、黄蓋、韓当という部下がいて、全人格的な信頼関係で結ばれていた。そして、劉備は、武将としての才能はむしろ乏しく、個人的な武力にもさしたるものはなかった。それに対して孫堅は、武将としても個人的な武力も抜群であった。
「董卓の乱」が起こると、各地で義勇軍が組織される。孫権も袁紹の従弟の袁術の推薦で朝廷から破虜将軍・豫州刺史という位を授けられた。孫堅は名実ともに群雄のトップグループに躍り出た。そして、その後も、孫堅は董卓軍とはなばなしく戦った。
孫堅の最期
初平二年に董卓は、代々の皇帝の陵墓をあばき財宝を奪い取ったあげく、洛陽に火を放って長安への遷都を強行する。孫堅は、いち早く洛陽に乗り込んだ。そして、孫堅は、井戸の中から大混乱の中で紛失した「伝国の玉璽」(秦の始皇帝以来、代々伝えられた天使の印)を発見する。玉璽を手に入れた孫堅は、これを知った董卓討伐軍の盟主袁紹の追及を振り切って、軍勢をまとめて魯陽に戻ってしまう。
しかし、魯陽に戻った孫権は、あっけない最期を迎えた。孫堅は劉表攻撃に向かった際、劉表の武将黄祖の軍勢を撃破し、山中で黄祖を捜索中に、黄祖の軍卒の矢にあたってしまう。
時に初平二年、孫堅三十五歳(孫堅の没年につては、初平三年、四年など諸説ある)。あまりに不用意な最期であったが、反面、いかにも常に最前線に立って戦い続けた。攻めの孫堅らしい終わり方だったともいえる。(抜粋)
孫策と周瑜
孫策と周瑜の出会い
孫堅が死去したとき、彼は本拠地らしい本拠地を持っていなかった。その父の果たし得なかった夢を受け継いだのが長男の孫策である。
父が無念の死を遂げたとき、孫策はまだ十七歳だった。当時孫策は、母や弟たちと一緒に廬江郡の舒県に住んでいた。そして、この地で、後年呉の孫氏政権最大の支柱となる天才軍師、周瑜と出会う。周瑜は廬江の名家の出であり、孫策とは同い年であった。二人はたちまち無二の親友となる。
孫堅戦死の知らせが来ると、孫策は父の遺骸を引取りに向かった。そして、まだ十七歳の孫策には父の軍団の受け継ぐ力が無かったため、軍団の大部分を袁術に預け、自分は墓所のある曲阿にもどり、時節の到来をまつ。
孫策軍と周瑜
三年後二十歳になった孫策は、袁術のもとに赴き、いったん傘下にはいり、父の軍団を返してもらう。やがて、孫策はいっこうに頼みがいない袁術に見切りをつけて、江東に拠点の確保を企てる。孫策は、首尾よく袁術から千余の兵馬を借り受け、自身の軍団と共に、江東への進撃を始める。一説では、このとき軍団を借り受ける条件として、袁術に父が手に入れた玉璽を差し出したともいう。
この軍団には、父孫堅と共に戦った勇将、程普、黄蓋、韓当がいた。そして、親友の周瑜が手勢を引き連れて孫策軍に加わった。
孫策は、「きみが来てくれれば、何もかもうまくゆく」と大感激する。(抜粋)
この後、孫策と周瑜は次々と敵を打ち破りわずか二、三年のうちに江東の各地を攻略し版図を広げていった。
政治センスも抜群の孫策
この孫策軍団の特長は、若さである。しかし、孫策は若さにまかせて暴れまわるだけでなく、行政センスも抜群だった。かれは敵を容赦なく滅ぼすが、攻略した土地の住人には、保護政策を取った。また、戦乱を避けて江東へ移住してきた知識人、張昭や張紘を辞を低くして向かい入れ孫策政権の中枢に据えている。
シャープな軍事的天才の周瑜が、果敢に攻めの姿勢をつらぬき、慎重なシビリアンの張昭(一五六 -- 二三六)が政権維持のため、守りの姿勢に徹するという、後年の孫氏政権のバターンは、孫策政権の時点で、すでに確立していたといえよう。(抜粋)
若きスーパースターの孫策、周瑜と太史慈の逸話
この孫策、周瑜は、孫郎・周郎(郎は若君の意)と呼ばれ、そろってスター的資質の持ち主だった。孫策は、明るく部下の意見を良く聞き、これぞと思う人材には底抜けに信頼した。ここで、このような信頼関係にかかわる逸話として太史慈の逸話が書かれている。
太史慈は、劉繇の武将だったが、劉繇追撃のさいに、孫策に生け捕りにされたが、孫策の人柄にうたれ、その臣下となった。やがて太史慈は、六十日の期限を切って配送した劉繇の軍勢を連れて来ると約束し、孫策のもとを離れる。だれもがもう戻ってこないと言ったが、孫策は信じて待ち続けた。すると、約束の六十日目に、太史慈は一万余の軍勢を率いて戻ってきた。
袁術の没落と玉璽の行方
そのころ、かつての孫堅の盟友の袁術は、力を失い没落していた。袁術は、孫策から受け取った玉璽のためか、皇帝の僭称する。そして孫策からは絶縁され、部下の武将も次々と去っていった。
周瑜は、孫策の命を受け、丹陽一帯を固めるために叔父の周尚のもとに戻ったことがあった。そのころ丹陽はまだ袁術の支配下であったため、一旦袁術に依拠する寿春に帰還した。孫術は周瑜を配下の武将にしたいと願ったが、周瑜にはその気がなく、自ら志願し江東に近い居巣に赴き、江東にわたる機会をうかがう。そして、土地の財産家の息子の魯粛を連れて、孫策のところに戻ってきた。
誰からも見捨てられた袁術は、追い詰められ、行き場を失うと、不仲だった従弟の袁紹に手紙を出して皇帝の称号を送り、袁紹の長男の袁譚に身を寄せる途中で急死した。
この玉璽については、袁術が急死した後、徐璆という人物に渡ったという説がある。その後、玉璽は後漢朝廷に献上されたため、魏王朝に伝わということである。
真偽のほどは定かではないが、袁術があえて皇帝を僭称したこと、さらにその称号を袁紹に送ろうとしたことを考え合わせると、袁術が何かその称号をオーソライズするもの(玉璽)を持っていたと、考えるほうが自然である。(抜粋)
道半ばでの孫策の急死
孫策は、袁術の残した軍勢を吸収し次々と勢力を伸ばしていく。その美貌の喬姉妹と出会い、孫策が姉(大喬)、周瑜が妹(小喬)を娶っている。
こうして荊州攻略の布石を打ったあと、周瑜を巴丘に残し自らは江東にもどる。しかし、その帰路で狩猟に出た時に、孫策は刺客に襲われた。
瀕死の孫策は、張昭ら重臣、七歳年下の弟・孫権を呼び出し、重臣たちには「中原はいま混乱のさなかにある。江東の総力を結集し、三江の堅固な地勢によれば、充分に天下をうかがうことができる。どうか弟をよろしく頼む」と告げ、孫権には「江東の軍勢をあげて天下分け目の戦いをする点では、おまえはわしにかなわない。だが賢明な人物や有能な人物を任用し、それぞれに心を尽くさせ、江東の地を守り抜く点では、わしはおまえにかなわない」と告げた。そして、孫策は絶命する。「江東の小覇王」の最期であった。
著者は、荊州から江東に戻った孫策の行動について次のように言及している。
このころ(建安五年)曹操は袁紹との官渡で総力をあげて対戦中であり、後漢王朝の献帝のいる都、許(河南省許昌市)の守りは手薄であった。孫策はこの虚を突いて一気に北上し、許を急襲し、献帝を自分のもとに迎えようとしたのである。(抜粋)
つまり、この大勝負の準備のために江東へ戻ろうとしたのである。
なるほど、孫策が刺客に遭わなければ、呉が献帝を手に入れたかもしれないって、ことですね。そうすると・・・・・呉が天下を取ったかもしれない!(つくジー)
初出掲載誌:(「歴史群像」九三年十月、学研)

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