魏の諸葛一族(後半)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一部 — 魏の諸葛一族(後半)

今日のところは、「魏の諸葛一族」の”後半“である。”前半“では、『世説新語せせつしんご』で「龍」にたとえられた蜀の諸葛亮しょかつりょう、「虎」と例えられた呉の諸葛きんと比較され、「狗」と一段低く言われた魏の諸葛たんが取り上げられた。それに続いて後半は、彼の息子諸葛靚しょかつせいと孫の諸葛恢しょかつかいについて書かれている。それでは、読み始めよう。

諸葛靚の生涯

諸葛靚は、諸葛誕の反乱のさいに人質として呉に入った(”前半“を参照)。諸葛靚の伝記は正史にはないが、呉の滅亡の前年、大司馬だいしば(国家の最高軍事責任者)になった大人物であった。かれは、西晋に仕えることを拒否して、門をとざし蟄居し、無官のまま生涯を終えている。ここでは、『世説新語』の方正篇により記述されている。

諸葛靚は、呉が滅んだ後、西晋に移ったが出仕せずにいた。西晋の武帝(司馬昭の息子司馬炎)は、彼と幼馴染だったため、会いたいと思ったが方法が無かった。そこで、諸葛妃ょかつひ(諸葛靚の姉)に頼んで呼び寄せた。そして二人は顔を合わせた。

酒宴がたけなわになったころ、武帝は言った。
―― きみはもちろん幼いころの友情をおぼえているだろうね。
諸葛靚は答えた。
―― 私は「炭を呑み身体に漆を塗って復讐する」こともできず、今日ふたたびお目にかかることになってしまった。
そこでハラハラと涙を流したので、武帝は恥ずかしさで居たたまれず、退出した。(抜粋)

ここで、「炭を呑み身体に漆を塗って復讐する」は、戦国時代の豫譲よじょうが、炭を呑んで喉をつぶし、身体に漆を塗って癩病を装って、かたきをうつ機会を狙った故事による。

著者は諸葛靚を評して次のように言っている。

諸葛靚は、幼なじみの情を強調する権力者武帝に対し、めずおくせず、いまなお司馬氏一族を父の仇として憎悪している、と昂然こうぜんと言い放つ。この気迫にはどうして、父諸葛誕をはるかに超えるものがあったと思われる。(抜粋)

諸葛恢の生涯

この諸葛靚の息子が諸葛かいである。彼が生まれたのは呉の滅亡の後であり完全に新しい世代である。

彼の伝記は晋書しんじょ巻七十七にある。それによると、彼は若いころから名声が高かったが、出仕して間もなく西晋王朝が存亡の危機に瀕したため、いち早く江南に移住した。

西晋は、呉を滅ぼし中国を再統一したが、武帝司馬炎が亡くなると、暗愚な二代皇帝けい帝が即位し、妻の賈后かこうが無軌道な陰謀かだったこともあり各地で後続の一族が蜂起する八王はちおうの乱」が起こる。そして、この八王の乱に乗じて華北に侵入してきた北方異民族による「永嘉の乱」により西晋は事実上滅亡し、これより華北は、五胡十六国の時代となる。

この混乱を避けて人々は長江を渡って江南に移住する。そして琅邪王ろうやおう 司馬睿しばえい(東晋初代皇帝元帝げんてい)を中心に東晋を成立させた。この東晋王朝の基礎固めには、王導おうどう王敦おうとんが中心になって働いた。

そして、諸葛恢もこの東晋政権に参画する。特に王導は彼を高く評価し「きみはきっと髪黒き宰相になるだろうな」と言った。ここで著者は、『世説新語』排調はいちょうに収録されている諸葛恢と王導の逸話を引いて、二人の仲の良さ、諸葛恢のユーモアのセンスなどを書き留めている。

諸葛恢は、東晋の実力者王導に信頼され、元帝、明帝、せい帝の三代にわたり功績をあげ、尚書令(宰相)の地位までのぼる。

ここで著者は、最初に書かれている『世説新語』の逸話に話を戻している(”前半“を参照)。呉の諸葛瑾しょかつきんは虎に、蜀の諸葛亮しょかつりょうは龍にたとえられたが、魏の諸葛誕しょかつたんは、狗という一歩劣ったものにたとえられた。しかし、その子孫を見ると呉の諸葛一族は滅亡し、蜀の諸葛一族も悲劇的な運命をたどっている。そして著者は、次のように評している。

諸葛亮や諸葛瑾に比べ、ずっとランクの低かった諸葛誕の一族だけがこうして栄えたのだから、歴史は皮肉なものである。(抜粋)

初出掲載誌:(「歴史ワールド」九一年八月、新人物往来社)

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