魏の諸葛一族(前半)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第一部 — 魏の諸葛一族

今日から「魏の諸葛一族」に入る。蜀の劉備仕えた諸葛亮しょかつりょう孔明が有名であるが、彼の兄の諸葛きんは呉につかえ、いとこの諸葛たんは、魏に仕えた。ここでは、魏に仕えた諸葛誕とその息子の諸葛靚しょかつせいと孫の諸葛恢しょかつかいにスポットを当て、それぞれの人生を追っている。

「魏の諸葛一族」は、前半と後半に分け、前半で諸葛誕を後半で諸葛靚・諸葛恢の話をまとめることにする。読み始めよう。


しんのエピソード集世説新語せせつしんごには、呉に仕えた諸葛瑾しょかつきん、蜀に仕えた、その弟の諸葛亮しょかつりょう、そして魏に仕えた従弟の諸葛誕しょかつたんについて

蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はそのいぬを得た。
諸葛誕は魏にいて夏侯玄かこうげんと名声をひとしくし、諸葛瑾は呉にいて、呉の朝廷の人々がその人物の大きさに敬服した。(品藻篇)(抜粋)

という人物批評を載せている。

蜀の劉備に仕えた三国志の中心人物諸葛亮を龍にたとえ、呉の重鎮だった諸葛瑾を虎にたとえたのに対して、諸葛誕は「狗」という罵語ばごに近い1ランク低い位置となっている。

ここでは、その魏に仕えた諸葛誕とその子諸葛靚と孫の諸葛恢の人生を追っている。

諸葛誕の生涯

世説新語せせつしんご』で「狗」とされた諸葛誕の伝記は、『三国志』「魏書」巻二十八にある。これによると彼は、諸葛一族の出身であることは間違いないが、諸葛瑾、諸葛亮兄弟と従弟であったかどうかについては、確証はない。

諸葛瑾、諸葛亮の兄弟は、少年時代に江南に移住したが、諸葛誕は後に曹操の魏政権の領土となる現籍地に留まっていたため自然と魏に仕えるようになったと思われる。順調に出世し史部郎しぶろうという重要なポストに就き、情実人事の排除などで手腕を発揮し高く評価された。そして御史中丞ごしちゅうじょう尚書しょうしょなどの重要ポストを歴任した。

ここで、思わぬ横槍が入る。彼は、当時その才能と美貌で名声の高かった夏侯玄かこうげんを中心とした才子グループの一員であったが、この夏侯玄を弾圧するグループがあらわれた。そして、第二代皇帝明帝めいていもこのグループを嫌っていたので、諸葛誕は免職になってしまう。

その後、まもなく明帝が死去したことが幸いして、元のポストに返り咲き、その後、呉に対する重要軍事拠点のよう州の刺史しし(長官)となって駐屯し二度と再び中央に戻らなかった

明帝の後を継いだ第三代皇帝の曹芳そうほうの補佐役だったのは、司馬懿しばい曹爽そうそうだった。そして曹爽は養子の何晏かあんと組んで司馬懿をないがしろにし、実権を単独で手中に収めようとした。

夏侯玄は、司馬懿にも礼を失することなく行動していたが、曹爽とは親戚でもあり極めて親しかった。そのため反司馬懿の一人と目された。そして、夏侯玄と親しかった諸葛誕にも重大な影響を及ぼす。

政権からボイコットされた司馬懿は、約十年の隠忍自重の末、クーデターを起こし曹爽派を誅殺する。このとき夏侯玄は、累を免れたがその後は司馬懿の独壇場となる。この事件が、司馬氏の魏王朝簒奪劇の始まりであった。

司馬懿が亡くなると、後を継いだ司馬師が政権を掌握する。状況は険悪化し司馬師は、自分よりはるかに人気がある夏侯玄を処刑する。そして、第三代皇帝斉王芳を強制的に退位させ代わりに高貴郷こうききょう公を皇帝として、簒奪への布石を打つ。

夏侯玄の処刑は、諸葛誕に衝撃を与える。彼は引き続き揚州にとどまり、表面上は司馬氏との関係を保つ。ここで、呉に仕えた諸葛瑾の長男の諸葛かく東興堤とうこうていに砦を築いた。諸葛誕は諸葛恪を討伐に向かうが破れてしまった。この東関とうかんえきの敗北の責任を問われ転任させられた。

この時、諸葛誕の入れ替わりに揚州に赴任してきたのが母丘倹かんきゅうけんであった。そして夏侯玄と親しかった母丘倹と文欽ぶんきんは、司馬師打倒を掲げて反乱を起こす。ここで、彼らは諸葛誕に同調するように使者をよこすが、諸葛誕は、使者を切り捨て身のあかしを立てる。この反乱は司馬師により鎮圧され諸葛誕はいち早く反乱軍と戦い征夷大将軍に昇進する。この間に急病で司馬師は亡くなり、弟の司馬昭があとを継いだ。

諸葛誕は、司馬昭が実権を握ったころから、みずからの位が上がれば上がるほど逆に身の危険を感じ、急速に不安をつのらせはじめる。かくして必死になって自衛手段を講じ、揚州の命知らずの遊侠ゆうきょうの徒数千人を配下におさめたり、呉軍の侵攻に備えると称して、魏の朝廷に十万の軍勢を要請したりしたのである。(抜粋)

司馬昭はこうした動きに疑いを抱き、諸葛誕を都洛陽に召喚し、軍勢と引き離す決定をする。

ここで諸葛誕は周到な準備の上、大規模な反乱を起こす。そしてその一方で末子の諸葛靚ょかつせいを人質として呉に差し出し救援を依頼する。魏の司馬昭はすぐに城を包囲し、援軍の呉軍もそれを突破することはできなかった。そしてもともと不仲だった文欽との対立が激化し殺してしまう。司馬昭はそのすきを狙い城に攻め、一気に落城させる。諸葛誕は、乱戦のなかで惨殺される。その後、司馬昭はいよいよ魏の簒奪の仕上げにかかる

司馬氏が反対者を冷酷にしつぶし、日増しに勢いを強める状況のなかで、反司馬派と深いつながりのある諸葛誕は追い詰められ、ついに反乱に踏み切らざるをえなかった。これは、やむえないことだっただろう。(抜粋)

この落城のとき、諸葛誕の兵士たちは「諸葛公のために死ぬのだから、心残りはない」と言って最後まで降伏しなかった。諸葛誕がそれなりの英雄性を持った人物であった。

しかし、この諸葛誕の生き方は、諸葛亮や諸葛瑾に比べれば、爽快感もなく、結果的に狗と蔑まれてしまうことになる。

これに対して、著者は時代状況が違っているからであると指摘する。

要するに、諸葛誕の生きた時代は、エネルギーを全的に投入する対象の見失われた、不完全燃焼の時代だったのである。それなりの才能をもちながら、こうした時代に翻弄ほんろうされて身を滅ぼし、みごとに完全燃焼した族兄たちと比較され「狗」とからかわれる羽目になった諸葛誕は、思えばまことに不運なめぐりあわせだった。(抜粋)

初出掲載誌:(「歴史ワールド」九一年八月、新人物往来社)

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