「何事が起こるかは知り得ない」
小友 聡『コヘレトの言葉を読もう』より

Reading Journal 2nd

『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』 小友 聡 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第8章 何事が起こるかは知り得ない

人間には災難の降りかかることが多いが、何事が起こるかを知ることはできない。
(コヘレト8.6-7)
[新共同訳]
災いは人間に重くのしかかる。
やがて何が起こるかを知る者は一人もいない。
[聖書協会共同訳]

7章の終わりにつづき、8章の冒頭も長く難解な文章が続いている。著者は、この文章は支離滅裂な議論をしているように見えるが、ここでコヘレトは、なぞかけをした後、自分でその謎解きをしているとしている。そして、そのなぞかけの意味とその解釈について説明している。

8章は、ダニエル書の「未来予知」が前提としていて、コヘレトはここでもそれを批判している。将来「何事が起こるかを知ることはできない」とし、王の言葉や命令に従うことに力点を置いている。

それゆえ、わたしは快楽をたたえる。
太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。
それは、太陽の下、神が彼に与える人生の日々の労苦に添えられたものなのだ。
わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、神のすべての業を観察した。
まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追及しても、悟ることができず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼は悟ってはいない。
(15-17節)
[新共同訳]
それで、私は喜びをたたえる。
太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに人に幸せはない。
これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に伴うものである。
私は知恵を知るために心を尽くし、地上でなされる人の務めを見ようとした。
昼も夜も、見極めようとして目には眠りがなかった。私の神のすべての業を見た。
太陽の下で行われる業を人は見極めることはできない。人が探し求めようと労苦しても、見極めることができない。たとえ知恵がある者が知っていると言っても、彼は見極めることができない。
[聖書協会共同訳]

コヘレトは、「わたしは快楽をたたえる」としているが、これは死の向こうに価値置くと人生の喜びが失せ、いま生きることの意味が薄れてしまうことへの批判である。
終末が計算可能とする黙示思想の批判している。

黙示思想では終末到達時は計算可能です。その終末時が来るまでは、現在時はただ耐えるだけの通過点ですから、現実を担うことなどだれも考えもしなくなります。今を生きることはどうでもよくなり、まさしく生きる喜びはなくなるでしょう。この黙示思想的運動がもたらす問題性にコヘレトは異を唱えているのです。(抜粋)

さらに現代のカルト宗教に触れこのように黙示思想の危険性について大貫隆の言葉を引いて警告している。

黙示思想の問題性について、聖書学者の大貫隆先生がこう書いています。「そこには人間の手による恣意的な解釈と計算を神意によるものと言い張ってゆく誘惑が口を広げている。あるいは、神が操作可能なものとなり始めると言ってよい。そもそも黙示文学者が普遍史全体を鳥瞰して、神の歴史支配の法則を『読解』できるのだと考えたとき、彼は構造的に神の位置に身を置いているのである」(『終わりから今を生きる 姿勢としての終末論』教文館、一九九九年、一二四ページ)。(抜粋)

関連図書:大貫隆(著)『終わりから今を生きる 姿勢としての終末論』、教文館、1999年

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