『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』 小友 聡 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第9章 短い人生だからこそ
コラム 「楽しく生きる」と「人生を見つめる」
空しい人生の日々 愛する妻と共に楽しく 生きるがよい。 (コヘレト9.9) [新共同訳]
愛する妻と共に人生を見つめよ 空である人生のすべての日々を [聖書協会共同訳]
9章の冒頭は、旧約聖書の他書には見られないような虚無的言葉から始まっている。しかし著者は、コヘレトは信仰を失った。異端者ではないとしている。
命あるもののうちに数えられてさえいればまだ安心だ。 犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。 生きているものは、少なくとも知っている 自分がやがて死ぬ、ということを。 (4-5節) [新共同訳]
確かに、すべての生きる者として選ばれていれば 誰にも希望がある。 生きている犬のほうが死んだ獅子より幸せである。 生きているものは死ぬことを知っている。 [聖書協会共同訳]
コヘレトは死ぬことばかり考えているが、「犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりもましだ」としている。
これは、いわば「生きているだけで丸もうけ」ということです(上村静『キリスト教の自己批判』新教出版、二〇一三年、六一頁)。(抜粋)
中世ヨーロッパにメメント・モリ(死を覚えよ)という思想がある。死を直視することにより、よりよく生きることを知るという逆説的な思想だが、コヘレトの言葉にも同質のものがある。
太陽の下、再びわたしは見た。 足の速い者が競争に、強い者が戦いに 必ずしも勝つとは言えない。 ・・・・・・・・ 時と機会はだれにも臨むが 人間がその時を知らないだけだ。 魚が運悪く網にかかったり 鳥が罠にかかったりするように 人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。 (11-12節) [新共同訳]
太陽の下、私は振り返って見た。 足の速い者のために競争があるのでもなく 勇士のために戦いがあるのでもない。 ・・・・・・・・ 時と偶然は彼らすべてに臨む。 人は自分の時さえ知らない。 不幸にも魚が網にかかり 鳥が罠にかかったりするように 突然襲いかかる災いの時に 人の子らもまた捕らえられる。 [聖書協会共同訳]
この部分は、「コヘレトの言葉」の3章1-17節の「時の詩文」と対応し、世界の不確かさ、先行きの不透明さを語っている。
「神はすべてを時宣にかなうように造り」「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」というコヘレトの認識は、「時と機会はだれにも臨むが 人間がその時を知らないだけだ」という言葉につながっています。神は「時」を創造されました。それがカイロスです。だけども、人間はそのカイロスをつかむことができません。後になって初めてそれに気づかされるのです。大切なのは、不確かな世界でどう生きるかなのです。(抜粋)
空しいと訳されている「へベル」を、短い時間ととらえ、そして時=「カイロス」を一瞬だが永遠の神の時ととらえる著者の読みには、納得させられる感じがあるんですよね。
振り返れば、そうなのかなぁって気がする。(つくジー)
へベルに関しては、ココを参照。カイロスに関しては、ココを参照
コラム 「楽しく生きる」と「人生を見つめる」
ここでも、「新共同訳」と「聖書協会共同訳」の違いについて語っている。
新共同訳で「愛する妻と共に楽しく生きるがよい」となっているところを、聖書協会共同訳では、「愛する妻と共に人生を見つめよ。」となっている。この部分は、ヘブライ語の直訳が「見つめよ」であり、新共同訳の「楽しく生きる」は意訳である。
著者は、聖書共同訳のこの部分を優れた翻訳と評価している。
関連図書:上村静(著) 『キリスト教の自己批判』 新教出版、2013年
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