立正安国への思いと挫折(その3)
松尾剛次 『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 より

Reading Journal 2nd

『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第二章 立正安国への思いと挫折(その3)

今日のところは第二章のその3、前回その2と今回は『立正安国論』についてである。前回の『立正安国論』の提出とその内容について、を受けて、今回は、その3で「立正」と「安国」について及び、なぜ『立正安国論』を提出したのかについて解説されている。


『立正安国論』の立正安国とは、「正法を立て、国を案じる」という意味であるが、日蓮は国の乱れを「法然の専修念仏などの悪法が世に広まり、日本を守っている善神が逃げ出したため」と定義づけた。そのうえで、国を安定させるためには正法(正しい教え)を広めるべきだと論じた。(抜粋)

まず著者は『立正安国論』の内容をこのようにまとめている。そして、この「立証とは何か」「安国とは何か」が問題になるとしている。

立正とはなにか

日蓮は後に法華経独勝(法華経がすべての経典のなかで最も優れている)に立場を唱えたので、正法=法華経と捉えられるが、『立正安国論』では、ほかの経典の価値も認めていた。まずここに注意する必要がある。また、法然の専修念仏の立場が、釈迦の教えを否定するという批判は、明恵にも通じる考えであり、日蓮の独自の考え方ではないことにも注意が必要である。

安国とはなにか

日蓮の言っている安国は、戦前の日蓮主義の影響もあり鎮護国家と思われがちだがそうではないと著者は言っている。鎮護国家の国家は、大和民族共同体の代表、象徴としての天皇を指し、観念的、抽象的である。しかし、日蓮の「国」は、飢饉や地震が続き、疲弊した当時の人々の暮らしの場としての具体的な「国」であった。さらに、その広がりも、『法華経』を帰依するならば、この世界がすべて日本というレベルに止まるものではなかったことも重要である。

『立正安国論』では、さらに重要なことは、幕府が邪法を信じ重用していると、やがて「他国侵逼難」と「自界叛逆難」その2を参照)が起こると警告していることである。この「他国侵逼難」と「自界叛逆難」こそが日蓮が蒙古襲来や二月騒動のじゃっによって自分の予想どおりのことが起こったと確信した理由である。この二月騒動とは、文久九年(一二七二)二月に鎌倉と京で起こった北条一門の内紛である。日蓮はこの騒動を「自界叛逆難」と捉えた。

次に日蓮が『立正安国論』を文久元年(一二六〇)に書いたことの考察であるが、これには念仏僧、浄光の勧進により制作された鎌倉の大仏の建立が関係していると論じている。
つまり、日蓮が鎌倉幕府に対して法然門下に布施を与えないようにと批判したのは、鎌倉幕府が法然一門をことさら優遇すること、つまり文久元年の鎌倉の大仏の建立を目の当たりにしたからだと言っている。
鎌倉幕府は、この念仏浄光の鎌倉大仏を「東土利益の本尊」と位置づけ大いに協力、後援した。東海道・東山道・山陰道・山陽道のみならず、北陸道・西国まで、人別一文の寄付を募ることを浄光に認め(松尾剛次『中世都市鎌倉を歩く』)、さらに預かっていた囚人を逃がした御家人に対して過料を科し、それを大仏造営料に宛てている。
以上のように、邪法の最たる法然門下の浄光が、鎌倉大仏建立の責任者として幕府の支援を受けて大仏の制作をしていることを目の当たりにしていたことが、『立正安国論』を書いた直接の動機となったと著者は考えている

次に『立正安国論』の話から、この『立正安国論』提出後の話に移る。
この日蓮の『立正安国論』は、鎌倉幕府から全く無視された。しかし、このような激しい念仏批判は、激しい敵を作ることになる。

『立正安国論』を提出した翌年の八月二七日には、東条景信ら念仏者に名越の草庵を襲撃され、下総のじょうにん のもとへ難を逃れた。この法難を松葉ヶ谷の法難という。(抜粋)

そして、日蓮は弘長元年(一二六一)五月一二日から同三年二月二二日まで伊豆へ配流されることになった。

この期間中、弘長二年に鎌倉西大寺叡尊の関東下野という鎌倉の宗教情勢を変える事件が起こった。この叡尊により鎌倉極楽寺を中心とした新義律宗が関東における主要な教団となった。


関連図書:
松尾剛次(著)『中世都市鎌倉を歩く』、中央公論新社(中公新書)1997年

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