身延山の暮らし(その2)
松尾剛次 『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 より

Reading Journal 2nd

『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第五章 身延山の暮らし(その2)

今日のところは、第五章のその2、前回、その1は、日蓮の身延山入りと文永の役についてであった。ここから日蓮が身延山で著した『撰時抄』『ほうおん抄』『三大秘法抄』の解説がつづく。これを2つに分けて、その2で『撰時抄』、『報恩抄』ついてまとめ、『三大秘法抄』はその3でまとめる事にする。


『撰時抄』

日蓮は、健治元年(一二七五)に『撰時抄』を執筆した。これは『開目抄』『報恩抄』に次ぐ大部の著作である。これらと『立正安国論』『観心本尊抄』を併せて日蓮の代表作五大部となる。

『撰時抄』は「それ仏法をがくせん法は、必ずず時をならうべし」という文章で始まる。(抜粋)

『撰時抄』は、時の観点から『法華経』のエッセンスである「妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」を広宣流布することについて述べている。

まず、仏法で能力を表す「機(機根)」が時と対になる。通常は機根無きものに仏法を説いても理解できないので、機根に応じて布教するべきであるとされる。(相手の理解能力に応じた布教をあようじゅという)しかし、日蓮は、今は末法の中でも「とうじょう堅固」の時期であるので、迫害(謗法)を怖れずに、布教(折伏という)をする時だと主張する。

このような主張の背景には、「文永の役」が背景にある。この時は、蒙古軍は短期間で撤退したが、再度の襲来も予想されていた。日蓮は『撰時抄』で幕府が日蓮に蒙古撤退祈禱を依頼せず、真言僧らに祈禱させていることを批判し、このままでは蒙古に滅ぼされると予言している。ここで、著者は実際には次の蒙古の襲来、「弘安の役」の蒙古軍の撤退は、「ある意味日蓮の予言がはずれた」と指摘している。

次に日蓮は、『大集経』『法華経』をもとに、今は、末法の始めの五百年であるため、『法華経』(はくほう以外の教えは埋没し、上行菩薩などの地涌菩薩によって『法華経』のエッセンスである「妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」の五文字・七文字を広宣流布する時であると述べている。

そして、念仏・禅・真言などの他宗を批判し、さらに念仏・禅・真言などを認める天台宗も批判している。

ここで、日蓮と上行菩薩との関係についての考察がある。
著者は、日蓮が自分を上行菩薩の化身とみなしていること、自分を上行菩薩の「御はからい」を受ける存在とし、上行菩薩の垂迹と考えていたことを幾つかの史料をもと考察している。

『報恩抄』

健治二年(一二七六)に日蓮の旧師の道善房が死去する。そしてその知らせを受けた日蓮は『報恩抄』を著した。

『報恩抄』は、道善房の菩提を弔うために著した書であるが、仏法つうの歴史を振り返り、また諸宗を批判している。そしてもっとも排撃の対象となったのは、かくだい円仁であった。円仁は、日蓮が受戒するために登った比叡山(ココ参照)の座主となった高僧で、清澄寺は、もともと円仁系の天台宗寺院であったため道善房の死を意識して、円仁の批判を行ったと思われる。

師である道善房は、心弱く、日蓮が極めた悟りに帰依せず、清澄寺に留まった。日蓮はそうした道善房の菩提を弔いながら、日蓮の題目を広める功徳が、道善房の聖霊に集まることを願って同書を終えている。(抜粋)

『報恩抄』で大切なところは、次の『三大秘宝抄』につながる書であり、日蓮が極めた仏法である『三大秘宝抄』で論じられる三点についても述べられている。

つまり、『三大秘宝抄』で展開される本尊、戒壇と題目である。日蓮が極めた正法である。それは、天台大師、伝教大師も弘通しなかった、末法の始めの衆生のための法であった。日蓮は『三大秘宝抄』において、その三つについては具体的に論じてはいないが、それらは『三大秘宝抄』で論じられることになる。(抜粋)

『三大秘宝抄』は次回、その3でまとめる。

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