身延山の暮らし(その1)
松尾剛次 『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 より

Reading Journal 2nd

『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第五章 身延山の暮らし(その1)

今日から、最終章、第五章「身延山の暮らし」である。日蓮は罪を許されて後、最晩年を身延山で過ごしている。第五章では身延山での暮らしとそこで書かれた『撰時抄』『ほうおん抄』『三大秘法抄』などの著作について書かれている。その1では、罪を許されてから身延山に落ち着くまで、及び文永の役と日蓮についてまとめる事にする。


日蓮は、文永一一年(一二七四)に罪を許され鎌倉に戻る。日蓮が二年半ほどで配流を解かれたのは、「他国侵逼難」などの予言をした異能者として評価されたという説があるが、著者は、極楽寺忍性などの嘆願(『本朝高僧伝』)の可能性が高いとしている。

忍性は、当時の鎌倉で最も大きな影響力を有した僧であり、日蓮をあっこうとがで訴え、悪口に対する謝罪を求めた責任者であった。おそらく忍性としては、日蓮が謝罪すると見込んでいたはずで、日蓮配流は意外な結果であったのだろ。忍性が日蓮配流を許す嘆願を行った可能性は高く、幕府も無視できなかったはずである。(抜粋)

日蓮は侍所で平頼綱と会見した。その際に頼綱は、蒙古来襲の時期について質問した。日蓮は今年(文永一一年)中に蒙古来襲が起こるだろうと述べた。そして、ほうぼうである真言僧らを祈禱に登用しないように求めた。しかし日蓮のかんげんは受け容れられなかった。日蓮は三度の諫言が受け入れられなかったため、鎌倉を退去し身延山に移ることにする。

以来、日蓮は身延山に九年間住むことになる。その間に日蓮は、大部の『撰時抄』『ほうおん抄』『三大秘法抄』などを書きあげている。その期間は日蓮晩年にあたるが、僧侶人生の集大成の時期でもあったといえる。(抜粋)

日蓮は文永一一年(一二七四)に鎌倉から身延山、郷(現・山梨県身延町波木井)に移る。波木井郷は、日蓮の弟子の波木井さねながの所領であり、に遅延が身延山に向かったのは実長の勧めによると考えられている。
日蓮はかんぎょう活動(日蓮の教えに改宗させること)を継続した場合、また配流の可能性あるため鎌倉での活動を断念し身延山に向かった。

身延山の草庵は、到着後一ヵ月ほどたって出来上がり、一二本の柱を持つしっかりたものだった(「じろ修復書」)。そしてしだいに弟子が増え身延山は本山として整備されていく。

ここから文永の役の話に移る。
文永一一年、日蓮の予言の通りに蒙古軍が襲来する。世に言う「文永の役」である。
三万三〇〇〇人もの蒙古軍は一〇月三日に襲来し、二〇日未明には博多湾に攻め込む、しかししょうかずすけを大将とする日本軍の善戦と冬の嵐のため二六日ごろに撤退した。従来は神風が吹いて一日で退散したといわれていたがそうではない(服部英雄『蒙古襲来と神風』)。

日蓮のもとに、この蒙古襲来の知らせは一一月初旬に届いている。この知らせを聞いて日蓮は予言していた「他国侵逼難」が起こったと考えた。そして、信者の南条時光へ手紙をしたため、この事態は「亡国の悪法」である念仏と「天魔の所為」である禅を批判し、これ以上の惨事を避けるために真言僧の祈禱を辞めるように主張している。そして南条に、この手紙を人々に読み聞かせよと指示した(「上野殿御返事」)。

日蓮は念仏・禅・律・真言などの謗法を信じる日本は、守護する神々から見捨てられたと考えていた。そして、次に来るだろう二回目の蒙古来襲では、日本は破れると確信していた


関連図書: 服部英雄(著)『蒙古襲来と神風-中世の対外戦争の真実』、中央公論新社(中公新書)2023年

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