『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 松尾剛次 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第三章 蒙古襲来と他宗批判(その2)
前回、第三章のその1では、日蓮の伊豆配流とその間に起こった叡尊の関東下向と忍性を中心とした叡尊教団の発展についてまとめた。今日のところ第三章、その2では、小松原の法難と法難後に唱え始めた法華独勝の教え、さらには蒙古来襲の後、ますます過激となる日蓮の他宗批判までをまとめる。
文永元年(一二六四)、日蓮は母が重病にかかったということを知り、故郷の安房にもどった。ここに滞在していた日蓮は、文永元年九月二二日付で「当世念仏者無間地獄事」を著している。
そして、文永元年一一月一一日に、日蓮は10人ばかりで東条郷の松原で東条景信配下の念仏者数百人に襲われるという事件が起こった。これが「小松原の法難」である。この法難で鏡忍が打ち取られ、二人が負傷した。日蓮自身も左手を打ち折られ、眉間に傷を負いながら、蓮華寺に逃げ込んだ。
この法難後、しばらくは下総国八幡荘の富木常忍邸に滞在し、文永三年(一二六六)に「法華題目唱[ほっけだいもくしょう]」を著している。
「法華経題目唱」によれば、日蓮は『法華経』の題目は八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目であり、『法華経』を全く理解できなくてもそれを唱えるだけで、ついには悟りの世界に入ることが可能とする。また、末法の時代における信心の重要性も論じている。信徒の日常における実践に際し、唱題を重視するようになっていった。(抜粋)
日蓮は、「南無妙法蓮華経」と唱える唱題は在家者が修するべき行であるとしている(「秋元殿御返事」、「十章抄」)。一方、修行者に対しては、「一念三千」の観法をするようにと区別していた。
そして、日蓮は『法華経』は、釈迦が説かれた教えの中で、独り優れていると認識するようになり、以前は真言なども重視していたが、「法華独勝」を主張するようになる。また、「南無妙法蓮華経」と唱えるだけで成仏できるとする「唱題」を宣揚するようになった(「持妙法華問答抄」)。
また、法然の浄土宗(念仏)だけでなく、禅宗批判も行いようになる(「教機時国抄」)。
このような時に、蒙古来襲という大事件が起こった。
朝鮮半島の高麗を服属させた元のフビライ・ハンは、日本に対しても朝貢させ、国交を結ぼうとする。フビライからの日本への使者は、文永三年(一二六六)から一二七三年にわたり六回を数える。文永五年(一二六八)、元の使者(第二回遣使)によりフビライからの国書が届けられた。内容は通商を求めるものだったが、日本が元の言うことを聞かなければ出兵の用意もあるという威嚇も込められていた。幕府は、これを侵略の先触れと受け取り、無視をして回答を送らなかった。そして、異国降伏の祈禱を寺社に命じ、西国の防衛体制を固めた。
この元の国書の到来は日蓮のもとに届いた。日蓮は、これを『立正安国論』で述べた「他国侵逼難 」(他国から侵略をうける難)の予想の的中と考えた(「安国論御勘由来」)。そして、鎌倉幕府に日蓮の献策を受け入れさせる好機と考えた。
日蓮は、文永五年八月に『立正安国論』を清書し、北条時宗に提出しようとしたが、それは無視されてしまう。さらに一〇月一一日に、書を宿屋入道に託し、取次を依頼している。
その書において、「要するに、諸仏・諸神への祈禱をやめ、諸宗の僧侶と日蓮との公場対決をもって、仏法の正邪を決せられたい」と述べている。(抜粋)
日蓮は、これと同じ内容の手紙を、一〇月一日付け、宿屋入道、平頼綱(北条時宗の側近)、北条弥源太(北条一門)、建長寺蘭渓道隆、寿福寺、極楽寺忍性、体仏殿別当(鎌倉大仏殿の統轄者)、浄光明寺、多宝寺、長楽寺に送った(「十一通の御書」)。日蓮の蒙古来襲への考えは、これらの寺々の存在を否定するものであったため、寺々の僧侶たちに悪口と受け取られた。
しかし、この献策は、幕府から取り上げられることはなく、そのため日蓮の他宗批判は、過激化する(「法門可被申様之事」、「撰時抄」)
そして文永三年に鎌倉に戻った日蓮の視野に念仏僧をも傘下に入れた律宗の忍性が入って来る。著者は、日蓮の弟子が編集した『聖愚問答抄』にある忍性への批判について、以下の2点を取り上げ検証している。
- 「布・絹・財産を蓄え、貸金業を営んでおり、教えと行いが既に相違している」
中世の極楽寺などの律寺では、「浄地」という施設で、年貢・米銭の運用など利銭活動を担当した(峰岸純夫「持犯文集紙背文書と極楽寺」)。これは、僧尼が本来禁止されている金銭を蓄えることを可能とする便法である。忍性は、集まった寄付を慈善事業などに使うために、浄地を設置した。忍性及び叡尊教団が行ったハンセン病患者などの救済活動は仏教慈善救済活動史における輝かしい(松尾剛次『忍性』)活動で、そのためには莫大な資金がいる。著者は、「したがって、忍性は、戒律に則って、慈善救済活動事業のために、利銭活動を行ったといえる」としている。 - 「道を作り橋を渡すことも、飯嶋の津で六浦の関米を取ることも、人々の嘆き多く、諸国の七道に木戸を作ることは、これも旅人のわずらいである」
ここで「飯嶋の津」は鎌倉の内港であり、「六浦」は鎌倉の外港である。これらの港湾管理や橋・道路の建設・修理などの公共事業は当時の幕府や朝廷に遂行能力が無く、それゆえ忍性や律僧が慈善事業として行い、その費用を利用者から徴収していた(松尾剛次『鎌倉新仏教論と叡尊教団』)
叡尊教団は、忍性が鎌倉で行ったこのような事業を全国的にわたって行っている。
次に日蓮の天台宗に関する考え方の変化について解説されている。
日蓮は文永六年(一二六九)に書かれ「御輿振御書」では、延暦寺が末法において唯一の正法の場と考えていた。しかし、文永七年(一二七〇)の「法門可被申様之事」では、延暦寺の正法が失われたために、仏法を妨げる天魔が日本に出現し、延暦寺に念仏や禅が入り込み、混淆としていると考えた。そのため、日蓮は延暦寺を飛び越えて直接、延暦寺の開祖最澄との結びつきを意識するようになった。そのことは「法華経題目抄」で「根本大師門人」と書名していることなどから伺われる。
末法の世において残っている唯一の正法を維持する寺院であるのに、延暦寺が衰え、それが蒙古来襲などの根本原因となっているとの認識を有していた。それゆえ、延暦寺を再生させるのは、「根本大師門人」である自分しかいないと思い、日本国を捨てた善神を呼び戻し、安国を実現するために、延暦寺の再興を鎌倉幕府に要求していた。(抜粋)
日蓮は、文永五年(一二六八)の「安国論御勘由来」で、延暦二一年(八〇二)に最澄と南都(奈良)の碩学たちとの討論に言及している。ここで、桓武天皇は、最澄が勝ったと判断し、最澄に帰依してこれを保護した。日蓮は、鎌倉幕府も桓武天皇の先例に倣って日蓮に最澄と同じ機会を与えるべきだと言っている。そして、日蓮が勝利した場合は、日蓮に従うように求めた。
関連図書:
峰岸純夫(著)『持犯文集紙背文書と極楽寺』、神奈川県立金沢文庫、1984年
松尾剛次(著)『持戒の聖者 叡尊・忍性』、吉川弘文館(日本の名僧 10)、2004年
松尾剛次(著)『鎌倉新仏教論と叡尊教団』、法藏館、2019年
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