『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第十五章 日本仏教の可能性 まとめ (その3)
今日のところは、「第十五章 仏教思想の可能性 まとめ」“その3”である。第十五章は、三人の著者によるそれぞれの観点からのまとめと日本仏教の可能性についてである。これまで、“その1”において、頼住光子が「共生」をキーワードに、“その2”では、大谷栄一が「地域寺院」という日本仏教の可能性を示唆した。
今日のところ“その3”では、最後の筆者となる末木文美士によるまとめである。末木は、「仏教の土着」という観点から、日本仏教の伝統について再考している。それでは読み始めよう。
3.仏教土着という観点から(末木文美士)
第十一章から第十四章のまとめ — 仏教土着という問題
第十一章から第十四章は「日本仏教の深層」を論じた。この日本仏教の根底にある深層は、仏教が日本に定着し、適合する中で次第に形成されていった諸形態である。
- 十一章:僧侶の肉食妻帯を取り上げた。その由来を求めると他の仏教圏では見られない大乗戒の問題に行き着く
- 第十二章:葬式仏教を取り上げた。葬式仏教は、仏教の死生観と大乗仏教の廻向の思想を基礎として、それなりの必然性を持っている
- 第十三章:神仏習合の問題を取り上げた。神道は今日のような形態となったのは、近代の国家神道になってからであり、それ以前は、神仏は密接に関係しながら、完全に一体化しないという微妙な関係を保っていた
- 第十四章:近代合理主義に対して長い歴史の中ではぐくまれた「見えざる世界」との交流の問題を考察した
日本の伝統ということ
ここで著者は、日本の伝統ということに言及している。日本では、西洋近代を手本として、それに見習うということに始終していたことを反省して、長い歴史と文化を持つに日本の伝統を見直そうというのは喜ばしいことである。
しかし、それが本当に古くからの伝統に根ざすことなく、ともすれば表面だけに流れてしまう恐れもないわけではない。政治家が伝統というとき、本当の意味での伝統ではなく、戦前の日本への回帰を意味している場合も少なくない。(抜粋)
著者は、伝統には小伝統・中伝統・大伝統の三つがあるとしている。
- 小伝統:第二次世界大戦後の伝統である。そして今日その限界がいわれる。ただし、戦後の『日本国憲法』の下で、七〇年以上戦争のない平和な状態が保たれている。それは現在、重要な伝統として、日本の根底を作っている。
- 中伝統:明治以後第二次世界大戦までの近代の伝統である。日本は西洋の近代化を取り入れるとともに、その中にのみ込まれないように「万世一系」の天皇を中心とした「国体」という体制を作り上げた。しかし、その伝統は本来の伝統ではなく中伝統的に改変され、作り出された伝統である。これは、国家神道に典型的に見られる。
- 大伝統:近代以前の伝統である。この大伝統は近代とはかなり異なり、近代的な常識では、割り切れない発想に基づいている。
もちろん過去の思想を呼び起こし、それを生かすには、今の時代に適合するように解釈し直していくことは当然である。しかし、その解釈が恣意的に捻じ曲げられたものであってはならない。元の時代に戻しながら、過去と現代が出会い、緊張感をもって対話していくところに、新しい解釈の可能性が生まれるのである。仏教もまた、そのような大伝統の中でさまざまな変容を経ながら、他の仏教圏と異なる日本独自の仏教を形成したのである。(抜粋)
「日本」と「仏教」再考
ここで著者は、中伝統における「国体」の思想を簡潔にまとめたものとして『国体の本義』という本から引用して論じている。
そこには、インドで発生した仏教は、日本において、「国民精神に醇化されて、国民的なあり方をもって発展した」し、「国民的在り方」へと変貌して定着したと書かれている。そして、儒教と共に仏教も、日本の「敬神崇祖の精神」の中に「抱容同化」したとされている。
もしそうとすれば、それは日本の外への通路を失い、日本という枠の中で閉じられ、完結することになる。(抜粋)
しかし著者は、そうではなく、仏教は外来の宗教として外とつながり、また外へと出ていくものである、と言っている。仏教はあくまで普遍性を要求され、外に開かれる一面を持っている。
閉じたなナショナリズムではなく、世界に開かれていく可能性こそ、仏教の大きな魅力と未来へ向けた希望があると言えるのではないだろうか。(抜粋)
[完了] 全43回


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