神道の形成と仏教 — 神仏の関係(その3)
末木 文美士 『日本仏教再入門』より

Reading Journal 2nd

『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第十三章 神仏の関係 日本仏教の深層3(末木 文美士) (その3)

今日のところは「第十三章 神仏の関係」の“その3”である。これまで“その1”において現代につながる宗教としての神道は近代に源流を持つことが説明され、そして“その2”において、近代以前の神道は、宗教と呼べるような体系が不十分であり、神仏習合といっても仏教に重きがあったことが分かった。しかし、注目すべきは神道が仏教に取り込まれずある程度の独自性を持っていたことである。

そして、今日のところ“その3”では、神道が仏教に完全に取り込まれてはいない現象を考察し、明治以前の神道をその「神道隔離」という視点でたどっている。それでは、読み始めよう。

3.神道の形成と仏教

神仏習合と神仏隔離

仏教が広まったアジアの諸地域を見ると

  • 東南アジア:土着の信仰が仏教の中に取り込まれ、仏教が国教化
  • チベット:土着の宗教が仏教の影響かでボン教となるが大きな勢力にならなかった。
  • 中国:儒教が国教的な地位を占め、仏教は正当な位置を得ることができなかった。さらに土着の宗教の道教が仏教の影響下で形成され、仏教とならび人々の信仰を得た。
  • 韓国:儒教が正当化され仏教は弾圧された。

となる。このようなアジア諸地域と比べると

日本では当初仏教が優位を占めながらも、土着の神々がそのもとで逼塞するのではなく、次第に力をつけ、神々と仏たちは緊張感を持ちながら相互に関係しつつ今日まで至っている。これは日本の特徴である。(抜粋)

仏教が優位である古代においても、神仏は無秩序の一体にはならず、両者の間にはけじめがあった。たとえば、「神道」の祭祀には「仏法」に吸収されないものがあり、宮中や伊勢神宮では仏教が忌諱されるなどである。

このような現象を「神仏習合」に対して「神仏隔離」という。この二つは矛盾することなく、同時に成り立っている。

神道理論と日本優越論

日本では、本地垂迹説など日本の神々が仏教による基礎付けが発展したが、その一方、日本独自のものが自覚されるようになり、仏教と違う形で「神道」が理論的に主張されるようになった。

その中心が伊勢神宮である。伊勢神宮は、天照大神を皇祖神として、日本を代表する神として重きをなし、「神道隔離」の中心であった。しかし、中世には重源ちょうげん叡尊えいそんなども参詣し、仏教とも密接な関係を持った。

この伊勢神宮を中心として発展したのが伊勢神道である。伊勢神宮では、鎌倉時代に神道五部書が編纂されるなど理論的な整備が進んだ。そして後醍醐天皇ごだいごてんのうが武士から政権を奪って、天皇中心の政治を実現したこともあり、天皇を日本の中心と見る見方が神道理論の形成に深くかかわった。そして、天台僧の慈遍じへんや南朝の北畠親房きたばたけちかふさにより、伊勢神道は天皇論と結びつく

親房の記した歴史書神皇正統記じんのうしょうとうきは、「大日本は神国なり」ではじまり、日本は神の子孫である天皇が支配する国であるとし、日本の優越性を主張している。このような神国観が、次第に定着し近代の天皇中心国家体制において評価されるようになる。

このような日本の優越性の主張に見られる価値観の変化は、仏教思想の日本化も関係する。天台で発展した本覚思想(ココ参照)では、あるがままの世界をそのまま最高の真理の世界として認識する。根本的原理の「理」は、事実的な世界「」を越えたものであるが、本覚思想では、事実的なこの世界そのものが永遠的であるとされる(「事常住」)。この理論を本地垂迹に適用すると、「本地」の仏よりも「垂涎」の神の方が高く位置づけられることが可能となる(「反本地垂迹説」)。このような理論が鎌倉時代後期の光宗こうしゅう渓嵐拾葉集けいらんしゅうようしゅうなどに見られる。

神仏関係の展開

このように神道の日本中心観はしだいに定着していく。そして、吉田兼倶よしだかねともにより自立した神道理論が確立された。兼倶は、唯一神道名法要集ゆいいつしんとうみょうほうようしゅうにおいて、神仏習合的な神道に対して、唯一神道を主張する。そして、

「我が日本は種子を生じ、震旦は枝葉に現わし、天竺は花実を開く」という根葉果実説を唱えた。(抜粋)

このような、中国の儒教もインドの仏教も、すべて日本の神道がもとになっているという理論は、伊勢神道系の慈遍が主張したものだが、兼倶によって普及した。ただし、兼倶の理論は天皇中心でもなく、伊勢が中心ともなっていない。これは、兼倶は吉田神社の神官であったからである。この兼倶の運動により吉田神社な神道の中心という地位を確立し、神道界で勢力を持つようになった。

この吉田神道は、仏教からの自立を図ったが、仏教を排斥したわけでなく、神仏は共存するものとしていた。ここにおいても神仏関係の仏教優位は揺るがず多くの神社は仏教寺院の支配下にあった。

ここで著者は、豊臣秀吉が豊国神社とよくにじんじゃで豊国大明神として祀られ、徳川家康が東照大権現として東照宮に祀られたことは、注目に値しると指摘している。古代・中世にかけては、人が死んで神となるのは、恨みを持って死んだ御霊神の場合に限られ、このように権力者を神として祀ることは、これまでになかったことである。

秀吉や家康は、子孫を見守るという目的で、神になろうとした。このような権力者を祀るやり方は近代になっても引き継がれ、明治天皇は明治神宮に祀られ、維新の功臣を祀った神社も現れた。さらに、国家のために死んだ人を祀る靖国神社も、それと同様に政治性を持っている。このような近代の神のあり方は顕彰神と呼ばれる。

最後に、著者は本章の内容をまとめている。

近世に至るまでの神道は神仏習合的であった。それに反して、仏教色を排除して日本の本来の神の信仰や形態や政治体制を取り戻そうという運動が近世にしだいに盛んになった。その中心が水戸学派の儒学や国学系の神道だった。

そこで神仏習合的な東照宮の位置づけは根拠をもたず、徳川政権そのものの正当性が疑問視されることになる。そして、徳川政権はあくまで天皇を助ける役割を担うものとし、それができない場合は、存在価値がないと考えられるようになった。そこに王政復古を求める尊王攘夷運動が盛んになる根拠があった。そして、明治以降に近代的な国家神道の形態が発展する。

政治の変転は単に世俗的な問題だけでなく、このような宗教的な背景が重要な意味を持つのである。(抜粋)

コメント

タイトルとURLをコピーしました