『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第十三章 神仏の関係 日本仏教の深層3(末木 文美士) (その1)
今日から「第十三章 神仏の関係 日本仏教の深層3」に入る。日本の神仏習合は不純と思われがちであるが、近世以前、神仏は常に密接した関係を持ち、神仏習合が一般的な形態であった。第十三章では、そのような神仏習合の関係を解き明かす。
第十三章も節ごとに3つに分けてまとめることにする。今日のところ“その1”では、神道が近代以降にどのような経過を取り、現在のような形になったかを、仏教との関係において読み解く。それでは、読み始めよう。
1.近代の神仏関係
現在神道は一つの宗教と考えられている。そのため神仏習合は不純なものと思われがちである。しかし、近世以前は、神仏習合は一般的な形態であった。しかし、神祇崇拝には、仏教と同化されない要素がある。ここでは中世以降に日本独自の神道の主張が生まれてきた過程をたどる。
近代になり宗教となった神道
今日、神道は独立の宗教と考えられているが、それは、それほど古いことではなく、神社本庁が宗教法人となり神道が宗教として一宗教となったのは、第二次世界大戦後、GHQにより国家神道が廃止られたことによる。
第二次世界大戦までは神道は宗教の枠に入っていなかったわけであるが、そもそも古くは神道と仏教が独立していること自体が自明ではない。
「宗教」という言葉は、近代的なレリジョン(religion)の訳語として用いられるようになると、キリスト教とりわけプロテスタンティズムの影響により、宗教は個人の内面の信仰に基づくものと考えられようになった(ココを参照)。その考えに従えば二つの宗教を信仰することはおかしいことになる。
しかし、現実の日本の宗教はどうであったか。寺壇制度から葬式仏教へと展開した仏教は、個人の信仰である以前にイエの帰属の問題であり、また、神社は地縁共同体を基礎として成立していた。多神多仏を前提とする神仏習合的な信仰は、特定の神への信仰に基づく一神教的な発想とは異なり、それと同じ範疇で宗教を理解することは困難である。(抜粋)
これは、日本人の「無宗教」とも関係する。欧米的な意味の無神論は、一切の宗教的価値を否定する唯物論やニヒリズムを意味するが、日本人の「無宗教」は、そうではない。宗教そのものを否定するという意味ではなく、お寺や神社に参詣し、そのような宗教的価値観を受け入れている場合が普通である。
それでも「無宗教」としか答えようがないのが、西洋的な「宗教」というニュアンスが、実際に日本人が持つ宗教性と必ずしも一致しないからである。
復古神道と明治維新
それまで仏教が深く関与し神仏習合的であった神道は、明治元年の神仏判然令により、仏教とは別のものとして認識されるようになった。しかし、このような神道の独立は突然起こったのではなく、それを引き起こす歴史的な流れがあった。
近世後半になると仏教は創造的なエネルギーが枯渇し、それに対して日本独自のシャーマニズム的動向が勢力を増すようになった。それが、尊王攘夷運動となり、明治維新へと向かう流れとなった。
その思想的源流は、
- 水戸学に由来する儒教的な国体論
- 平田篤胤に由来する復古神道
である。
日本の儒教は、近世末になると、次第に民族主義的な方向が強くなる。特に水戸学の影響が大きく、会沢安は『新論』の中で日本独自の国体を説き、天皇が支配し、だれもその位を奪取しようとしなかったところに、日本の特徴があると言った。
会沢の国体論では、天命を受け新しい王朝が誕生するという、中国での「易姓革命」を否定し、日本の天皇は、天照大神の子孫であることに支配の正当性があり、永続されると説かれている。これは後に「万世一系」という用語で表された。この水戸学派の主張は、吉田松陰を通して長州藩の尊王攘夷運動の思想的源流となる。
平田篤胤による「復古神道」は、もとを遡れば本居宣長の国学に基づいている。宣長は、外来の儒教や仏教を批判し、日本には日本の学問があるとして、その精神を明らかにするために『古事記』を研究した。篤胤は宣長を受けて、『古事記』以外にも『日本書紀』などの様々な文献を用いて古代の精神を明らかにしようとした。
そして、世界の神話はすべて日本神話がもとになっているという日本中心論を展開する。この復古神道の流れは、大国隆正らを通して政治性を高め、尊王攘夷運動の思想的支柱となった。
このような思想的背景を持つことによって、明治維新は王政復古ちう復古的政策をとり、古代律令体制に基づく祭政一致体制を目指した。(抜粋)
政教分離への流れ
しかし、このような祭政一致の政策は、必ずしも成功しなかった。明治政府は太政官と同等の位置に神祇官を立つ制度を設けたが、その神祇官は格下げされ廃止された。それに代わって教部省をもうけ仏教を巻き込む形で宗教家を教導職として要請することを試みたが、島地黙雷らの浄土真宗の反対にあいその政策も失敗した。
島地は信教の自由と政教分離を主張し、それはやがて大日本帝国憲法(一八八九年)に明記されることになる。(抜粋)
信教の自由と政教分離が確立し、仏教は国家から自由な民間宗教ということになるが、神道の位置づけが問題になった。そして、議論の後、神道非宗教論が採用され、神社は国家の祭祀の場所として、国によって管轄されることになった。そして、神社の崇拝は信教の自由の枠外となり、国民の義務的なものとなった。
ここらへんの変遷や島地黙雷らの活躍などは、本書の「第七章 廃仏毀釈からの出発」(“その1”、“その2”、“その3”)に詳しいよ。つくジー
国家神道の確立
このようにして確立した国家神道は、非宗教であるがゆえに大きな制約が課された。つまり宗教的な活動は認められず、布教や修行や思想的な発展も制約を受けた。幕末から明治初期に、神道を仏教から独立させるために、神式の葬式・神葬祭の普及を図られたが、それも頓挫した。
しかし、結婚式は、皇太子(後の大正天皇)の結婚式が評判となり神前結婚式が流行した。反対に田中智学が提唱した仏教式の結婚式はそれほど普及しなかった。
このようなことから、神道は慶事に関わり、仏教は凶事に関われという分業が定着して、今日まで続いている。(抜粋)
仏教がイエを単位とし、神道が地域の共同体を基盤とする。このような神仏は近代になって、分業しながら補いあう関係となり継続している。著者はそれを神仏習合に対して神仏補完と呼んでいるとしている。
このように近代神道は従来の神道をそのまま継承しているのではなく、大きな改変を受けている。そして国家神道として天皇中心の「国体」を支えるものとなる。神話体系も天皇を天照大神を最高神とする形で一元化した神話体系を整え、教科書を通じて国民に普及させた。また神社も天照大神を祭る伊勢神宮を頂点として序列が整備された。そのため民衆によって信仰された小さい神社は統廃合され、神仏習合的な性格が強かった神社は、祭神を古代の神々に変えて仏教的要素を排除した。
また、この目的に沿い靖国神社や明治神宮などの新しい神社が多く作られ、それが近代の神道のイメージとなっている。
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