『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第十二章 葬式仏教 日本仏教の深層2(末木 文美士) (その2)
今日のところは、「第十二章 葬式仏教 日本仏教の深層2」の“その2”である。第十二章では、日本の「葬式仏教」がテーマであった。そしてそれに対する二つの問
- 現在の葬式仏教の形態は古くからの習俗といえるか
- 葬式仏教の考え方は、本来の仏教の考え方に合わないものといえるか
について考察している。“その1”は問①の否定的な答えについての考察であった。葬式仏教は近世の寺壇制度により定着するが、近代において天皇を中心としたイエ制度の一部となり、近世以前のものとは性質が異なることなどが説明された。
そして、今日のところ“その2”は、問②の答えについてである。ここでは、仏教の死生観や廻向の考え方がどのように発展し日本に定着していったかが考察されている。それでは読み始めよう。
次に問②「葬式仏教の考え方は、本来の仏教の考え方に合わないものといえるか」について考えるとしている(問については、ココ参照)。
2.仏教の死生観と廻向の原理
業と輪廻の原理
仏教では、かなり早い時期から輪廻を前提として、そこからの解脱を説いている。この輪廻(サンサーラ)の説は、業(カルマ)の説と深く結びついている。
ここで業は、行為の持つ潜在的な影響力という意味である。行為をした後、その影響力が残り行為を成した人にはたらく(「自業自得」)。そしてその原理は、よい行為をすれば、幸福が得られ、悪い行為をすれば、不幸な結果となる(「善因楽果、悪因苦果」)である。
そして、このような業の原則は、死後の来世にもかかわってくる。そしてその業の原則が、輪廻と結び付く。つまり、現世の幸不幸は前世の行為の結果であり、現世の行為の結果は来世に得られるということである。このように生死が繰り返されることが輪廻である。
この輪廻の領域は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)であり、悪い行いをすれば悪い領域に生まれ、よい行為をすればよい領域に生まれるとされる。
この輪廻の連続は、果てしないため今幸福でも、いつ不幸の領域に堕ちないとも限らない。そのためこの輪廻の連続を苦と捉える。そしてそこからの離脱が解脱と呼ばれる境地である。仏教では解脱した状態を涅槃(ニールヴァーナ)、目覚め(悟り、ボーディ)とも呼ばれる。そしてブッダ(仏陀)とは、目覚め(悟り)に到達した人のことである。その状態になるには、苦が生まれる法則を正しく理解し、苦を生む行為のもととなる煩悩を断つことが必要である。
無我と輪廻の主体
仏教で説く「無我」は、自己とか霊魂とかという実体を否定している。これはインドの主流の宗教思想と対立する。主流の思想では、アートマン(不変の霊魂)があると考えるが、無我(アナートマン)は、それを否定している。
輪廻は、アートマン説では、わかりやすいが、無我を根底に置くと、何が主体なのか分かりにくくなる。
仏教では、人は色(物質的要素)・受(感受作用)・想(表象作業)・行(意志作用)・識(意識作用)の五蘊からなっているとする。ここで身体的作用は、色であり精神的作用は、受・想・行・識である。
この五蘊が死んだとき解体すると何もなくなり輪廻と矛盾するがそうではなく、仏教では、次のように考えている。
五蘊が目に見えない微細な形を取り、男女の愛欲に目をくらませて母胎に入るというのである。こうして煩悩によって強固なものにされた五蘊の塊は、死によって解体されず輪廻を繰り返すことになる。それが苦のもとになるのである。そこから離脱し、涅槃に至ることが切実な課題となり、そこに修行の必要が生まれる。それは戒・定・慧の実践によって達せられる。(抜粋)
廻向の原理
このような業による輪廻は自業自得で個人単位で完結し、他者が関与できない。初期仏教や部派仏教ではこのように個人の自律に中核が置かれているが、大乗仏教になるとそれが大きく転換される。それは菩薩という考え方である。
菩薩の基本は、他者なしにはあり得ないということであり、自分だけでなく他人の利益も求めなければならない(「自利他利」)。そのために他者に対して自己の善行の結果を振り向けることが必要になる。(菩薩については、第十四章で取り扱う)
このように自分の利益を他者に振り向けることを、廻向(パリナーマ)と呼ぶ。とりわけ相手が死者の場合には、直接相手の利益を図ることができないので、廻向の原理が不可欠となる。
この廻向の原理は、自業自得の仏教の根本原理に反するものである。この廻向の原理を認めると、自他の区別に曖昧さが生ずることになる。そしてそれを可能とするのが「空」の理論である。
「空」の思想では、二項対立的なさまざまな問題は言語によって作られたものとし、実態はないものと考える。そしてその対立を越えたところに悟りがあるとしている。そのため自と他の区別も、必ずしも絶対的でないと言える。空の理論を背景に考えると、自分の善行を死者に振りむけることが認められるようになる。死者の供養も可能となる。
このような理論による死者供養は、東南アジアで大きく発展する。また、目連尊者が自恣の日(夏安居の最終日)に僧たちを供養して、その功徳により地獄で苦しんでいた母親を救ったことを説く『盂蘭盆経』は中央アジアの成立と考えられる(盂蘭盆の起源)。
死者のために功徳を廻向することは、中国でも広く行われ、死後の供養の七七・四十九日から一周忌、三周忌などの方法がされる。それぞれの時期に裁きを受ける十王の信仰も発達する。そして、このような中国の仏教を受け継ぎながら、日本であらたな展開を示すことになる。
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