『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第十一章 日本仏教と戒律 日本仏教の深層1(末木 文美士) (その3)
今日のところは、「第十一章 日本仏教と戒律」の“その3”である。ここまで“その1”において日本仏教の「肉食妻帯」に焦点を当て、それがアジア仏教の中で異例であること、さらに僧侶の世襲が「世俗社会からの離脱から世俗社会で機能する仏教」という新たな可能性に発展したことなどがわかった。そして、“その2”においては、戒律の変遷と最澄に始まる大乗戒採用について学んだ。
それを受けて今日のところ“その3”では、最澄の大乗戒の成立後に起こった日本での戒律の変遷と、それによる多様化と世俗社会の中で活動の関係を明らかにしている。それでは読み始めよう。
3.戒の変遷
戒律の内面化と変貌
最澄の広大な菩薩の理想と厳しい実践は、必ずしもそのまま後代に受け継がれたとは言えないが、それによって戒律感は大きく変貌して、日本独自の形で展開したことは間違いない。(抜粋)
最澄の理想は、大乗戒壇で授戒した弟子は一二年の籠山し菩薩の修行をすることだった(ココ参照)。しかし、その理想は次第に変貌していく。
最澄の弟子で大乗戒壇の設立に尽力した光定は、『伝述一心戒文』を著して、「一心戒」を主張する。この「一心戒」とは、戒の形式でなく「一心」を確立することであるとして、戒の内面化である。すなわち、戒の精神さえ体得すれば必ずしも戒の名目を守る必要はないということである。 また、天台密教の完成者安然は、受戒成仏を主張した。これは受戒の儀式を受けることが直ちに成仏になるというもので、戒を守ることよりも受戒の儀式に重点がおかれるようになった。
そして、戒の概念はさらに発展し、「戒体」は、受戒によって悪を止めて禅を修する力が身に具わると考えられるようになった。そしてそれは一旦身に付けば、失うことはない(一得不失)とされた。つまり、受戒が直接成仏に結び付き、必ずしも戒律の条目を守る必要がないことになる。このようにして生活規律であった戒に対する考え方は大きく変わった。
こうして受戒という形式が重視される一方で、実際の戒は形骸化されていくことになった。日本仏教の戒律無視は、このようなところにも源泉をもっている。(抜粋)
日蓮の本門の戒壇
日蓮は、最澄の戒はいまだに『法華経』の迹門(前半部分)の段階のもので、本門(『法華経』の後半部分)の戒壇を作る必要があると主張した。
著者は、この本門の戒壇は何を意味するか必ずしもはっきりしないとしながら、外面的な戒律の遵守ではなく『法華経』を信じ、題目(南無妙法蓮華経)を唱えることと考えられるとしている。
また、それが個人の心的な問題か、国家的な規模で特別な場所に築かれるかは、議論があるとしながら、近代の国柱会(ココ参照)や創価学会の運動は、国家的な戒壇(国立戒壇)の設立を目指すものであった、と指摘している。
ここの日蓮の本門の戒壇については、松尾剛次の『日蓮 「闘う仏教者」の実像』に詳しく書かれている(ココを参照)。もっとも、それを読んでいることは、戒律とか受戒とか戒壇とかの意味がはっきりしていなかったので・・・・・ようするにもやもやってしてました。(つくジー)
親鸞の戒律否定
親鸞(ココ参照)は、戒そのものの無用化を主張した。親鸞は結婚し子供があり、そしてその子孫が代々廟を守ってそれが本願寺となった。それに倣って門流(真宗・浄土真宗と呼ばれる)の僧侶は、受戒せず江戸時代でも妻帯が許された。
親鸞は最澄の作とされる『末法灯明記』(おそらく偽書)を重視している。『末法灯明記』には、末法においては、戒律を守らない無戒や破戒の「名字の比丘」(名前だけの比丘)であっても尊重されなけらばならないと説かれている。
親鸞は法然教団が弾圧されたときに、還俗しているため僧ではないが、「非僧非俗」であるとし、生涯相違を身に着け、髪を剃った僧形でいた。これは『末法灯明記』の「名字の比丘」に他ならない。しかし、戒がないことで、僧と俗人とを分ける基準はますます曖昧化することになった。
叡尊・忍性と戒律復興運動
このように、戒が解体してしまう傾向にたいして、仏教界の復興に際しては、しばしば戒による僧侶の生活規律の確立の必要が主張され、実践された。(抜粋)
ここで著者は、そのような例として叡尊と忍性について解説している。
叡尊たちは、戒律の衰退を歎き、志を同じくする四人で自誓受戒(師がいない時に仏を師として自ら授戒の儀礼をおこなうこと)を行い具足戒を受け、戒律復興運動を起こした。叡尊の弟子の忍性は、鎌倉極楽寺を拠点として関東に教線を伸ばす。
注目されるのは、彼らの活動は戒を守って寺院の中で修行に邁進するのではなく、むしろ積極的な社会活動に努め、病人や貧者の救済、死者の埋葬、交通機関の整理など、社会事業や福祉事業に関わる仕事に従事したことである。(抜粋)
もともと戒は世俗と離れて修行を行う規則だったが、彼らの活動は世俗の中に出ていって救済に努めるものだった。その点で最澄の精神を受け継ぐものであった。
戒には、滅罪の力があり、穢れに打ち克ち、それを浄化する力があると考えられていた。そのため彼らは、遺体や病人にも直接触れることができ、金銭も取り扱うことができた。彼らは密教の影響を強く受けていて、今日真言律宗と呼ばれている。
この叡尊と忍性については、松尾剛次の『日蓮 「闘う仏教者」の実像』に詳しく書かれている(ココを参照)。日蓮は忍性をライバル視し、激しく争っている。(つくジー)
このような戒の力は広く認められ、俗人が病気になったとき、戒の力により命が助かることを期待して受戒することがしばしば行われた。このとき戒を授ける戒師は持戒堅固な僧であることが条件であり、浄土念仏を唱えた法然は、戒師としても有名だった。
また、臨終に受戒する作法も発達し、現在では、死後に戒を授け、戒名を与えることが多くの宗派で行われている。
江戸時代には、戒律復興運動が盛んに唱えられた。その特徴は、内面化された大乗戒から、もとの具足戒への戻る運動が盛んになったことである。
以上のように、日本における戒律はもともとの比丘の生活規律という側面だけに限らず、きわめて多様な形態に変貌しながら、大きな役割を果たしている。このような戒の変貌は単に堕落とは言えず、多様化することで仏教が世俗社会の中で活躍することを可能にしてきたのである。今日の日本仏教のあり方がそのままよいとは言えないが、肉食妻帯だからと言って批判することは、必ずしも適切と言えないであろう。(抜粋)
関連図書:松尾剛次(著)『日蓮 「闘う仏教者」の実像』、中央公論新社(中公新書)、2023年
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