『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第十一章 日本仏教と戒律 日本仏教の深層1(末木 文美士) (その2)
今日のところは、「第十一章 日本仏教と戒律」の“その2”である。“その1”において日本仏教が「肉食妻帯」が許されるというアジア仏教の中で異例の特徴があることが示された。そして、「肉食妻帯」に至るまでの経緯について概観し、さらにこの僧侶の世襲が「世俗社会からの離脱から世俗社会で機能する仏教」という新たな可能性があることが分かった。
“その1”のテーマであった「肉食妻帯」であるが、それは歴史的な経緯とともに、日本が「大乗戒」を採用したことが大きく影響している。今日のところ“その2”では、仏教における「戒律」の展開と、最澄がとなえた大乗戒についてがテーマとなっている。それでは読み始めよう。
2.大乗戒の採用
戒律基本
ここでは、まず原始仏教以来の戒律の変遷についてまとめられている。
「戒律」は、「戒」と「律」に分かれそれぞれ
- 戒(シーラ):自発的に身に付け習慣になることor個々の規則の条目
- 律(ヴィナヤ):定められた規則orそれらをまとめられた文献
の意がある。
そして、原始仏教以来「戒・定・慧」を三学といい学ぶべき根本とされる。ここで
- 定:禅定(心を鎮めて、瞑想すること)
- 慧:智慧(理論的研究により真理を理解すること)
- 戒:ただし生活習慣を身に付けること
である。
仏教では聖典を「経(蔵)・律(蔵)・論(蔵)」に分け、三蔵という。
- 経:ブッタが語った教え
- 律:規則をまとめたもの
- 論:教理的な理論書
である。(この三蔵をインドから中国に齎したのが三蔵法師である。)
このように、戒律は仏教にとってきわめて重要なものである。出家を希望する人は、戒を守ることを誓ってはじめて入門を許され、修行者の仲間に入って修行を行うことになる。(抜粋)
この戒律を守ることを誓う儀式を受戒(授ける側からは授戒)といい、三人の師と七人の証人の出家者(三師七証)が必要である。
この受戒を経て、男性は比丘、女性は比丘尼となり僧(僧伽、サンガ)という比丘、比丘尼の集団に入る(のちにその成員を僧、僧侶と呼ぶようなる)。
この比丘・比丘尼になるまえの見習いを、男性は、沙弥、女性は沙弥尼– 式叉摩那(女性は二段階)という。さらに、在家の信者は、男性は優婆塞、女性は優婆夷と呼ぶ。
仏教の戒律の変遷
この比丘・比丘尼の守るべき戒はきわめて多く。比丘が約二五〇、比丘尼が約三五〇で、具足戒と呼ぶ。そして、この戒の体系が律蔵として纏められている。この律蔵は、インド仏教の初期に部派が分裂していくとそれぞれの部派ごとに少しずつ変化していく。そのため
- 南伝仏教:上座部の戒律
- チベット仏教:根本説一切有部の戒律
- 中国仏教:唐の道宣により法蔵部の四分律を用いることが確定
のように部派ごとに違っている。しかし、基本的な部分は一致していて比丘、比丘尼が集団生活をする際の規則が定められている。
この具足戒を受戒することで、修行者は一人前の比丘として認められ、僧伽に加わって修行することが可能となったのである。(抜粋)
これらの規則はインドの生活が前提となっているため、中国ではそのまま守ることが難しくなり、禅宗が盛んになると、実際には寺院生活に適した規則、清規が定められる。しかし、具足戒はそのまま残り、具足戒を受戒することで正式な僧侶となることは変わらなかった。
そして、国家制度が確立すると、出家しようとするものは、国家の許可のもとに寺院に入り沙弥になり、ある期間を経て初めて受戒が可能となるシステムが作られる。このように寺院に入って沙弥みになること得度と言い、その時に出される許可が度牒である。
基本的にはこのようなシステムが日本に導入されるのであるが、そこに大きな変更が加えられることになる。(抜粋)
日本への戒律伝来
戒律の日本への伝来は、七五三年の鑑真の来日による。鑑真は、具足戒を伝えはじめて三師七証のもとで、授戒儀式を行い、正式な戒律を具備した僧伽が成立した。そして、僧となるためには東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺の天下三戒壇が定められ、そこで受戒することが僧になるために義務づけられた。そして、得度・授戒制度は管理されて、年間に正式な得度者の人数は宗派によって定められ、年分度者と言った。
しかし、日本での具足戒は現実離れしていて、鑑真により授戒制度が定めらえたが、多分に儀礼的なもので、必ずしもきちんと実施されていたとはいえなかった。
僧の中には国家認定の得度者でなく、自分勝手に得度して寺院に入る私度僧が増加し、優婆塞のままで寺の労務に従事する人たちもいた。
最澄の大乗戒壇の主張
このように、すでに早い時期から日本では必ずしも具足戒はきちんと機能しなかった。そうした状況の中で、戒律に対する見方そのものが大きく変わる事態が生じた。それは最澄(七六七~八二二)による大乗戒壇の主張である。(抜粋)
最澄は、『法華経』に基づく一乗思想を鼓吹した。この一乗思想は、三乗思想に対するものである。三乗思想では、小乗の声聞(仏の教えを聞いて悟る者)・縁覚(単独で修行して悟るもの)と大乗の菩薩との別を説く。それに対して、一乗思想は、すべての人が仏性を持ち(悉有仏性)、仏の悟りを得ることができると説く。
最澄は、新しい戒律思想を、この立場から主張した。
そして、比叡山に戒壇の創設を目指したことには二つの理由があった。
- 若い僧が比叡山で修行を始めても、受戒のため東大寺に行くと、修行の厳しい比叡山に戻らず、南部にとどまってしまうことが多いということ
- 具足戒は、小乗のものであり、大乗仏教には大乗仏教の戒・梵網戒を用いるべきであるということ
ここで②の梵網戒は、『梵網経』に基づくもので十重四十八軽戒(十の重い戒と四十八の比較的軽い戒)が説かれている。ここで、十重戒は
- 不殺
- 不盗
- 不婬
- 不妄語
- 不酤酒:酒を売らない
- 不説罪過:他人の罪を説かない
- 不自讃毀他:自分を讃め他人を罵しらない
- 不慳:物惜しみをしない
- 不瞋:いきどおらない
- 不謗三宝:三宝を謗らない
である。
ここには、⑤のように酒を売ることを禁止たり、⑩のように三宝を謗らないなど、出家者の戒律としては不自然なところがある。実際に中国では、菩薩戒として、出家者・在家者のどちらにも通用するものとして用いられた。
そして、この梵網戒は、鑑真以前から日本で研究され鑑真自身も具足戒とともに日本にもたらしている。それは出家者と在家者の双方に通用するものであるため、具足戒に代わるものでなく具足戒を補うものとして捉えられていた。
ところが、最澄は大乗仏教である以上、小乗の部派の戒である具足戒を用いるべきでなく、純粋な大乗戒である梵網戒を授けることで、比丘の資格を与えるべきであると主張した。(抜粋)
この主張には、主家者と在家者の線引きを曖昧にする危険性があったが、最澄は梵網戒の特徴は「真俗一貫」であるとし、むしろ出家者と在家者に差がないことを利点と考えた。
最澄は弟子に一二年間の籠山を要求した。その修行に要求されるのは、「忘己利他」の菩薩であり、人々のために尽くすことが求められた。そしてその菩薩の最高のものは「国宝」として国の精神的指導に当たるとされた。最澄は、このような理想を実現するために延暦寺に大乗戒壇を設けることを目指した。
最澄は『山家学生式』によって、大乗戒壇の設立を朝廷に訴えた。しかし、南部の僧侶と論争になる(その経緯を『顕戒論』に纏めてある)。大乗戒壇は、南部の反対により最澄生前には、実現せず、八二二年に認可された。
こうして大乗戒壇が誕生した。そして、いわゆる鎌倉仏教の諸派は、比叡山の天台宗から出ているので、梵網戒を用いるのが普通であり、延暦寺で受戒した僧は具足戒を受けていない。
こうして、最澄による大乗戒の主張と大乗戒壇の成立によって、一方でもともとの戒律の原則が大きく揺らぐ結果が生じたとともに、それによって日本的な仏教の世俗化と社会参加仏教がうまれる基になったということができる。(抜粋)
ここで最澄に関しては、本書の「1 最澄の生涯と思想」に詳しく書いてある。特に、大乗戒壇については、そのなかの「三一権実論争と徳一、大乗戒壇の主張」を参照してくださいませ。(つくジー)
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