『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第五章 道元と禅思想 日本仏教の思想4(頼住光子) (後半)
今日のところは、「第五章 道元と禅思想」の”後半“である。”前半“は、道元の生涯をその思想を絡めて追っていった。そして、今日のところ”後半“では、道元の主著である『正法眼蔵』を取り上げ、そこに書かれている言葉を手掛かりに、道元の思想に迫っている。それでは読み始めよう。
2.『正法眼蔵』に見られる道元の思想
『正法眼蔵』と道元の「真理」
亡くなる直前まで道元が執筆、編集していた『正法眼蔵』は、日本思想史上、最高の哲学書」とも言われている。(抜粋)
著者はその中でも
- 「現成公案」巻:自己と世界についての基本思想を示す
- 「仏性」巻:大乗仏教の重要概念である「仏性」についての議論
- 「山水経」巻:山、川などの自然と仏道の関りを論じる
- 「有時巻:「修証一等」を支える時間論
などは、国際的にも大いに注目されている。しかし、その内容の理解は容易ではない。
ここで著者は、『正法眼蔵』の難しさは、私たちの世界や人間の見方と道元の見方の間の隔たりであると言っている。しかし、その隔たりは絶対的なものではない。道元にとって修行とは、「自分とは何であるのかに気付くためのもの」であり、さらにそれは「何者でもない」つまり「世俗的な意味づけを取り去ったあとの、むき出しの「端的な事実」に気付くためのものであった。
この「端的な事実」とは「真理」や「無我」「縁起 — 無自性 — 空」などの言葉で説明できるものである。これらが、原事実であれば、あらゆる人間にとって、それは普遍的な前提となる。
道元は、自らつかんだ原事実を、『正法眼蔵』の中で語ろうとしている。もし、彼の言葉が、その難解さにもかかわらず直接に現代人の心に響き、訴えかけてくる力を持つとするならば、それが、ある意味では、人間に共通する前提に触れたものであるからに他ならないとも言えよう。(抜粋)
以下に『正法眼蔵』の言葉を通して道元の思想を考える。
仏道とは — 「現成公案」巻を手掛かりに①
著者はまず「現成公案」の一節
仏道をならふというは、自己をならふ也、自己をならふというは自己をわするる也(抜粋)
から考察を始める。
まず仏道修行とは「己事究明」であると言われる。それは、「自分が何であるかを追究する」ことであり、仏教のもつ基本的な問いである。
「自分とは何であるか」という日常では、自明であり改めて問う必要のない。それをあえて問うということは、日常的な自明性のおさまらない何かを感じるからである。
日常で不満も差しさわりもないのに何かが足りないと思う、そのような精神状態は現代でもあるが、これを近代以前の語彙で表すと「発心」ということができる。
この「発心(発菩提心の略)」は、本来は「悟り(菩提)を得ようと仏道修行をこころざすこと」であるが、広い意味では、「日常的自明性に満足できず、日常を超える何かに惹きつけられた心の状態」ととらえることができる。
発心してしまった人は、今、ここにいる自分について問う。それは「本当の自分」を追究することでもある。
しかし、道元は、「自分とは何であるか」を追究することは、「本当の自分は~である」というような一義的な答えを得ることなどではない、と言う。(抜粋)
「自分を忘れる」こと — 「現成公案」巻を手掛かりに②
道元は、仏道修行は「自分とは何か」を探求することで、それは「自分を忘れる」ことと言っている。これを著者は前に引用した一節に続く言葉から考えている。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり、万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしめるなり。(抜粋)
まず、「自己を忘れる」は、「自分に対するこだわり、執着がなくなる」ことである。
どうしてそうなるかというと、自分が「万法(ありとあらゆる存在)」に「証せられる(=悟る)」から、つまり「自分が万物によって悟らされているから執着がない」のである。である。
この「万物によって悟らされている」状態は、「自己の身心」と「他己の身心」が「解脱(=悟り)」し、執着が無くなる状態である。(この「他己」とは、「他」ではなく「己」と密接にかかわっていることを意味し、山川草木、生きとし生けるものすべてを指す)。つまり、自分(自己)とそれ以外(他己)のものが別々のものでなく、互いに互いを成り立たせている
このように「自分が何であるか」を追求していくと、他のものから切り離された「本当の自分」は存在しないことが分かる。そしてそのとき、ことさら「自分」だけを取り出して問題にするような思考方法から解放され、執着が無くなる。
つまり、自分とは、他と関係のうちで刻々と姿を変えつつ、そのつど、「今、ここ、この私」として立ち現れているにすぎない。このような自分のあり方を自覚し、それによって自分に対する執着がなくなることを、仏教の言葉では、「煩悩」の消滅による「悟り」と言い、「解脱」というのである。(抜粋)
「修証一等」 悟りと修行の関係 — 「弁道話」を手掛かりに①
世界のあらゆる存在は、つながり合いはたらき合い互いを成り立たせ、自分は、それ自身として独立しているのではなく、関係の中で成立している。このように、独自存在の排他的自己でないことを、仏教では「無我」「空」と呼び、その関係の中でそのものとして成立することを「縁起」と呼ぶ。
そして、道元の悟りとは、この「空」のなかで、自分への捉われを脱し、他とのつながりを自覚したとき、自分自身が真の自由を得るとともに、他者も自由にする、ことである。
そして、このような悟りに関しては、「修証一等」であるとされる。(抜粋)
この「修証一等」の考え方は、天台本覚論に疑問を持った道元の修行論である(ココ参照)。天台本覚論と修証一等は、
- 天台本覚論:人は本来悟っているので修行は不要
- 修証一等:本来悟っているからこそ、本格的な悟りを自覚的に顕現するための修行が必要
という関係になる。この「修証一等」とは、修行と悟りは一体(一等)のものとして捉え、修行を目的 — 手段関係とはしないという意味である。
ここで著者は、「弁道話」の一節を引用してさらに「修証一等」について考察している。
道元の修行は悟りを基礎としている。本来的には修行者はすでに悟っているが、修行の発端ではその自覚はない。そして、悟りの瞬間において修行者は本来的な「空」に出会い、自分が修行を開始した時点からすでに、「空」の次元に身を置いていたことに気づく。
ここには、本来の自己に還帰するという循環構造がある。目的の実現は、その目的自体を基礎として可能となっているのだ。(抜粋)
著者は、ここまでの考察により「修証一等」について次のようにまとめている。
つまり、すでに「空」の次元にある者が、「空」を顕現することが修行なのである。そうであるとしたら、修行することにおいて、「空」の体得それ自体、すなわち悟りという修行の目的が実現されていることにある。つまり、修行と悟りとが等しいということになるのである。(抜粋)
無始無終の悟り — 「弁道話」を手掛かりに②
この悟りは、一度手に入れればそのまま保持できるものではない。修行以外に悟りはないため、悟りを保持するには、修行を続けるしか方法はないことになる。
修行する一瞬、一瞬こそが、悟りが顕現される一瞬、一瞬である。そのため修行の初めと「悟り」は、違う状態に思えるが、両者は深層構造では同じである。
「修証一等」とは、修行が手段であり、悟りが目的であるというような捉え方の否定である。(抜粋)
道元の修行とは、世の中の行為が、すべて何かのための手段であるという、「目的 — 手段」の連鎖を外れた行為である。真理を体得する目的のため修行が行われるが、その修行自身が真理に立脚している。つまり、悟りは修行の目的であると同時に、また根拠でもある。
悟り(証)もそれと一体の修行も無限のものであるからこそ無始無終であり、いま、ここにいる自分(一分)こそが本来的悟り(本証)を修行(妙修)によって顕現していくと道元は強調しているのである。(抜粋)
修行をすることにより、真理が自分の外ではなく、足下にあったことに気づく、そこに本来あったものを自覚するという循環構造がある。
悟りとは、特別なことが起こることではなく、あらゆるものがつながり合って、はたらき合いつつ、今、ここに、このようなものとしてあったということを、心と体で実感として気付くだけなのである。
修行について — 「行持」巻を手掛かりに①
ここで著者は、「行持」の巻を引用し、道元の思想についてさらに考察する。
「行持」とは、修行の意味であり、特にその持続を意味している。『正法眼蔵』「行持」の巻によると、仏祖の大道には、「修行の持続」=「行持」があり、発心、修行、菩提、涅槃が環のように無始無終に連続して断絶しない(道環)。この連続した「道環」=「縁起 – 無自性 – 空」に促されて修行を持続させる。そのため、修行は自分や他人が強いてするものではない。この何にも汚されない修行の持続により自分というもの、他というものが成立する。
このことに関する大切な教えの趣旨は、自分の行為の「はたらき」(功徳)が確かにあり、「全世界」(十万の匝地漫天)の全存在がみな、そのはたらきを受けるということである。そのことを他も知らず。自分自身、対象的には自覚できないとしても、そうなっているのである。(抜粋)
そのため、諸仏の行持により、修行者の行持が確かなものとして現れ(見成=現成)、仏道が通達する。逆に修行者の行持により諸仏の行持が確かなものになり(見成=現成)諸仏に仏道が通達する。修行者の行持により、道環(仏道の連続性)という功徳(はたらき)がある。
修行の連続性 — 「行持」巻を手掛かりに②
道元は、「行持」=「修行の持続性」について、その「連続性」ということを、次の3つの次元で語っている。
- 自己における修行の連続性(修証一等)
- 自己が修行する時に、世界のありとあらゆるものとともに修行をするという空間的連続性
- 自己が修行する時に、過去・現在・未来の諸仏や祖師たちとともに修行をするとう時間的連続性
この3つの連続性について、ポイントとなるのは、「行持」の「功徳」(はたらき)である。この功徳は自分や他からの「強制」でない。
それは、修行というものは、自分の意志で行ったり、他人に強制されて行ったりしたとしても、それは、自分が修行しているのでも他人に修行させられているのではない、ということである。
自他という二分法を超えた自ずからなる仏道(大道)のはたらきの中で、修行が成り立っているということなのだ。(抜粋)
修行が、日常的な二元図式、目的 — 手段の連鎖から離れて、そのはたらきを顕現することである。そこには、循環が成り立ち修行と悟りは一つとなる。この「修証一等」は「行持道環」となる。
そしてこの永続が、一個の私を越えて、全空間、全時間に及ぶ。空間的には、自分のなす「行持」は、自他を越えた顕現であり、そのはたらきは空間的に全世界に広がる。時間的には、仏祖と自己の関係において表現され、仏祖が自己を基礎付け、自己が仏祖を基礎づける。そのため、時間的には、過去から未来への一方ではなくなる。
あらゆる時間が、修行する「今」とつながり、「今」を支えるものとなり、また、修行する自分の「今」の方も、あらゆる時間を支えていくのである。(抜粋)
ここは、『正法眼蔵』の内容だったが、・・・・・さすがに難しい。字面を追っていくのが精いっぱいな感じですねぇ。
道元は、「天台本覚論」(人は本来悟っているので、修行は不要)(ココ参照)に疑問を持ち、禅の世界に入ったのだが、結局のところ、そこに帰ってきたような感じだろうか?ただ、「人は本来悟っているが、それを修行によって顕現化することが大切である」(修証一等)って感じな気がする?そして、その「修証一等」が空間的時間的な広がりを持ち円環構造の「行持道環」に至る!・・・ってことかな?
ついでに言うと、親鸞のいう「人は阿弥陀仏に帰依することにより、「絶対他力」への自覚が起こり(「空 – 縁起」の場に連なり)救済を成就する。しかし、人の執着はこの世にいるかぎり抜きがたいため、救済を成就しながらその救済さえも喜べない(救済の絶対不可能性)。(ココ参照)」っていう方が、わからないなりに、ワタクシのような庶民には優しいような気がしたんですよね。・・・・う~~ん、日蓮はどういっているかなぁ~。(つくジー)
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