『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第三章 最澄と空海 日本仏教の思想2(頼住光子) (その2)
今日のところは「第三章 最澄と空海」の“その2”である。“その1”では、平安仏教の特徴と最澄の生涯を追った。最澄は『法華経』の重視や単受大乗戒の主張などにより、日本仏教の発展の方向性を決めた。また自身は天台宗の教義を完成出来なかったが、それにより鎌倉仏教の法然、親鸞、道元、日蓮などの輩出に繋がっていく。
今日のところ“その2”では、最澄と同時期に真言密教を開いた空海を扱う。ここでは、空海の生涯を追うとともに、その思想を「曼荼羅的思考」というキーワードを用いて探っている。それでは、読み始めよう。
2 空海の生涯
空海と「曼荼羅的思考」
「万能の天才」とも言われる真言宗の開祖空海(七七四~八三五、諡号弘法大師)は、さまざまな領域を横断し、互いに異なったもの --- 例えば、仏教と仏教以外の教え、密教と顕教、奈良仏教と平安仏教、仏教哲学と仏教儀礼、理論と呪術、都と辺境、文化と自然、中国と日本など --- を統合していった。その統合は、相対するものに対して一つの立場に立ってもう片方を排除したり、一方的に従属、同化させたりするのではなくて、より高次の見地から、つまり、真言密教の立場から、それぞれを位置づけ所を得させ、ネットワーク化していくという、「曼荼羅的思考」に貫かれている。(抜粋)
著者は、冒頭で「曼荼羅的思考」についてこのように説明している。そして、空海の生涯を「曼荼羅的思考」をキーワードにして追っている。
空海は、辺境に生まれ都で仏教を学ぶ、各地の海浜・山岳で修業し、東寺をはじめとする都で鎮護国家の祈禱を行う、本拠地の高野山では深い禅定の境地を得る。
このように、都も辺境も、儀礼も瞑想も空海の生涯にわたって共存していた。
ここでは、空海の思想の特徴を明らかにしつつ、都と山の往還を通じて空海が目指したものは何であったかをその生涯と思想を手がかりにしながら考えてみよう。(抜粋)
入唐以前の修行時代
空海は、七七四年に讃岐国多度郡屏風浦に豪族佐伯氏の一員として生まれた。一五歳で上京し叔父の阿刀大足のもとで儒教を学ぶ。一八歳で官僚を目指し大学明経科に入り儒教を修めるが、大安寺の勤操らと交流するうちに仏教に心惹かれ、一九歳で大学を中退する。その後は私度僧として各地で修業を重ねるとともに南部仏教を学んだ。
そして、二四歳のときに、儒教・道教・仏教を比較して仏教の優越性を示した『三教指帰』をあらわす。ここで空海は仏教的理想世界を描き出す。
それは、あらゆるものが雲のように風のように集まってきて天に地にめぐりつつ、「八部、四衆、区にして各交わり連れなり、讃唱関々たり、鼓騁淵々たり。鍾振磕磕たり。(天、竜、夜叉、などの八部衆の神々や、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷などの四衆が、それぞれ一応の区別を持ちながらそれぞれに交わり連なり、仏を賛美する歌声はのびやかに響き、鼓や鐘の音が響き渡る)と言われる、あらゆるものが一体となって仏を讃える理想世界である。(抜粋)
これは、後年に空海が展開する曼荼羅的世界の先取りと言ってよいと、著者は指摘している。
厳しい修行
空海の修行時代については資料が乏しいが、彼は阿波の大瀧岳、土佐の室戸岬の御厨人窟、新明窟などで修業している。
ここで著者は、室戸岬の洞窟での修行に注目している。
洞窟に籠って百日間、虚空蔵求聞持法の真言を唱え、百万回に達した成就の日に、空海は明星(虚空蔵菩薩のシンボルであると同時に、釈尊も明けの明星を見て悟ったとされる)が飛来し口の中に飛び込むという神秘的合一 (unio mystica) を体験したという。(抜粋)
空海が修行した洞窟では、空と海が溶け合う光景が現在でも見られる。空海は、世界(空・海)と真理(明星)と自己との一体感を表わすために空海と名乗るようになったといわれる。
空海は、私度僧として山林修行をする修験者であっただけでなく、南部の寺では仏教や語学を学んでいる。唐招提寺では四分律を、興福寺では法相教学を、東大寺では護国経典と華厳教学を学んだとされる。そして久米寺で『大日経』を発見したと伝えられるが、当時の日本に入っていた密教教学は、断片的であったため、本格的に密教を学ぶために唐へ渡ることを志した。
密教とは何か
ここで著者による密教についての解説が書かれている。
密教とは、法身仏(真理そのものとしての仏)である大日如来(毘盧遮那仏と同体)が、少数の限られた者のためだけに秘密に説いた教えであり(法身説法)、万人を対象とする顕教と対照される。インドでは、四~六世紀ごろ成立し、インドにおける大乗仏教の思想展開の掉尾を飾った。(抜粋)
密教では火供(護摩、ホーマ)が行われ、仏菩薩や諸天(神々)を召喚するために曼荼羅が作成された。
また、密教には、呪術的土着的で雑多な要素を含み雑密と、『大日経』『金剛頂経』などが志向する、大乗仏教の「空」の思想に基づく体系的成仏思想としての純密がある。
空海以前に日本に入ってきた密教は、雑密であり空海が中国長安の青龍寺で引き継いだ純密を日本にもたらした。
密教で行われる加持祈祷の「加持」は、「御念」とも呼ばれ、仏の慈悲が衆生に加わり、感応して、衆生の中にある仏の本質としての仏性を目覚めさせられ、仏に対する信心が発動することである。それにより仏と衆生の感応が響き合い、仏と衆生が一体になる。これを「入我我入」という。
このような、一体性は大乗仏教の基本理論の「空 — 縁起」に基礎づけられている。さまざまな儀礼や修法によってこの境地を実現することで、多様な現世利益の実現を目指すのが密教の大きな特徴である。
唐における修行と伝法
空海は、八〇四年三一歳のときに遣唐使に加わり、二〇年滞在予定の留学僧として唐に渡る。唐の都では、その語学の才能やを活かしサンスクリット語を習得するなど活躍をする。そして、真言密教の学僧の青龍寺の恵果阿闍梨に認められ伝法灌頂を受け、密教の奥義を授かり阿闍梨の位に上がり、真言付法の八祖、遍照金剛となる。そして、空海は速やかに日本での布教のため帰国を決意する。帰国にあたっては、密教関連の多くの新来、新訳の経論、密教儀礼に必要な法具や各種曼荼羅などを揃えた。
帰国後の活躍 — 密教の布教
空海は、八〇六年三三歳で帰国する。二〇年の滞在予定を勝手に切り上げたため本来ならば闕期の罪に問われるはずであったが、空海の持ち帰った密教の知識を活かすためその罪は許された。これには、同じく遣唐使船で唐に渡った最澄の尽力や支援があったとされる。最澄は、中国で密教を中途半端な形で学んだため、改めて空海から密教を学びたいと期待を寄せるが、結局は絶交するにいたる(“その1”参照)。
空海は、たびたび嵯峨天皇の勅命の下、鎮護国家の修法をたびたび行い、また高雄寺では、金剛界結縁灌頂、胎蔵界灌頂などを行い密教宣布のために盛んに活動した。
高野山金剛峰寺と東寺の開創
空海は、修禅の根本道場として高野山の下賜を天皇に願い出る。空海は高野山に密厳浄土の曼荼羅的世界を築こうとしたと思われる。
高野山の中には、壇場伽藍と奥の院という金胎二つの曼荼羅世界があり、壇場伽藍自身も曼荼羅的世界を現すとともに、伽藍を構成する建物中にも二つの曼荼羅的世界がある。このように幾重にも曼荼羅が重なりマクロコスモとミクロコスモが相即相入するという有機的な総合構造が出来上がっている。
そして、嵯峨天皇は空海に東寺を託し、密教による鎮護国家の根拠地とするように要請する。これを受けて空海は、この寺を「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と名付け、講堂に二一体の仏像を配した立体曼荼羅を配置し、鎮護国家のためのさまざまな儀礼をおこなった。
高野山は瞑想などの禅定修行の場所として位置づけられたが、そこで得た法力、世界の真相に対する深い理解をもとに、都において鎮護国家儀礼をはじめとするさまざまな利他の社会活動を行うという構想を空海は持っていたものと思われる。(抜粋)
万灯万華会と無限の菩薩行
空海は、日本最初の庶民の学校である「綜藝種智院」を開講する。
そして、『秘密曼荼羅十住心論』と後にその略本として『秘蔵宝鑰』三巻を著す。これは、淳奈天皇の命による。天長六本宗書(三輪・法相・華厳・律・天台・真言の六宗が提出した各宗の教義解説書)の一つである。
そして空海は、高雄山を弟子に任せ自身は高野山に籠る。そして高野山では四恩(父母・衆生・国王・三宝への恩)への感謝のため、万灯万華会を開催した。
ここで著者は、この万灯万華会の際の空海の願文を長文引用し、空海の境地についてこのように言っている。
空海はここで、とりわけ鳥虫魚獣の恩を言い、それらとの一体性を強調する。仏教では、実際に自分と何ら関わりのある有縁の者でなく、何の関わりのない無縁の者への慈悲を重んじる。鳥虫魚獣とともに同じく悟ろうという空海の言葉は、まさに無縁の慈悲の表現である。悟りの世界である曼荼羅世界においては、鳥虫魚獣までもが一つの場を占め自己と一体のものとなるのである。(抜粋)
真言宗の確立と入定
そして、八三三年(天長一〇年)、空海は高野山を真然らに任せ、五穀を口にせず、静かに瞑想三昧の日々を送り、未来世に現れる世を救うという弥勒菩薩の前に結跏趺坐し、滋氏念誦法を行い、また金剛曼荼羅や胎蔵曼荼羅に描かれる弥勒菩薩に心を集中させ、その真言(オン マイタレイヤ ソワカ)を繰り返した。(抜粋)
やがて死を覚悟した空海は、天下泰平、玉体安穏、除災招福のため、宮中にて真言法を修することを上奏し認められる。そして「後七日御修法」と呼ばれる密教の祈禱をする。そして、年分度者三名も認められ、金剛寺も定額寺(国立寺院)となることが許され、真言宗を盤石とする。
臨終直前の十五日には諸弟子を集め、自分は三月二一日にこの世を終えるが、その後兜率天に往生し、弥勒菩薩が下生する五六臆七千万年後に、ともにこの世に降りて来て人々を救済すると予告した。そして予告通りの日に六二歳で入定(禅定に入ること)し、即身成仏を遂げたと伝えられる。空海は、今でも高野山奥の院廟所の下の石室で入定中だと信じられており、生きていた時と同じように衣食が供えられている。(抜粋)
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