『日本仏教再入門』 末木 文美士 編著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第二章 仏教伝来と聖徳太子 日本仏教の思想1(頼住光子) (その2)
今日のところは「第二章 仏教伝来と聖徳太子」の”その2“である。”その1“では、導入として人間の自我や共同体とその外にあるものとを介在する「超越的なるもの」について考えた。そして、日本文化に大きく影響を与えた外来文化として儒教と仏教を比較した。それを受けて”後半“では、儒教と仏教の日本での受容の違いを示し、日本では、仏教が「超越的なるもの」の供給源となったことを説明する。それでは読み始めよう。
仏教の伝来と受容
儒教と仏教の初伝について
儒教の初伝は、五世紀初頭の応神天皇の時代であった(『日本書紀』)。儒教は、為政者のための統治理念と道徳を示す教えとして、何の摩擦もなく受容された。
一方、仏教の初伝は、五五二年の欽明天皇の時代である(『日本書紀』)。儒教と違い仏教はそれが本格的に受容されるまでに紆余曲折があった。
仏教は百済の聖明王により「仏教は、周公・孔子でさえ理解できなかった深遠な教えである。」と告げられ伝えられた。欽明天皇は、仏教を信じるかどうか群臣に尋ねた。蘇我稲目は賛成したが、物部尾輿と中臣鎌子は「日本の神々を祀ることで自らの尊貴性を確保している天皇が、もし自分から蕃神(外国から来た神)を拝むならば、天神地祇の怒りを招くだろう」と言って反対した。天皇は、百済から来た仏像を蘇我稲目に預けて拝ませると、国中に疫病が流行った。これは日本の神の祟であると、物部氏が仏像を「難波の堀江」に流し捨てると、今度は皇居の大殿に火災が起こった。
ここで注目されるのは、まず、仏教を儒教の聖人である周公や孔子すら理解できない深遠な教えであると、先行する儒教に対する優越を強調していることと、仏像を「蕃神」、つまり共同体の外部からやってきた、「神」として捉えていることである。(抜粋)
仏教の受け入れ
つまり、崇仏派の蘇我氏が仏像を礼拝したことにより、日本の神の「祟り」が起こり、仏像が捨てられてしまうと今度は、皇居が火事になった。これは、捨てられた仏による祟りということになる。本来、仏は修行によって真理を体得したブッダであって祟るよう案ものでないが、ここでは、日本の神の特質である「祟り」が仏に投影されている。
この「祟り」は、「たちあらわれる」であり、コントロールできない自然の力=神の象徴である。そしてその自然の力を何とかして人間にとって恵みを与える方向に向ける営為が「祭祀」である。
『日本書紀』の仏教の初伝の記事の翌年に、「茅渟の海中に不思議な光と音が出現し、調べてみると楠木であった。その楠を天皇が仏像に刻ませ吉野寺に安置させた。仏像は今でもときどき光を放つ」という記事がある。
この不思議な光と音は、人間がコントロールできない不思議は減少で「祟り」と考えられる。これを仏像にしたということは、仏の祀り方、つまりコントロールの仕方を確定したということである。
若干の矛盾葛藤はあったにせよ、最終的には、天皇を頂点とする神々の祭祀の中に仏教が位置付いたということ、つまり王権と仏教が結び付いたことを示す。(抜粋)
儒教と仏教の日本に取り入れられ方を見ると、儒教は何の葛藤もなく取り入れられたが、仏教の受容には大きな抵抗があった。それは、仏教と儒教の取り入れ方の浅深に関わっている。
最も強力な「超越的なるもの」の供給源になった仏教
日本では、徳地主義などの道徳的基礎を儒教から学んだが、儒教の根幹にある「祭天」の儀式は取り入れなかった。日本では天皇が神々の祭祀を行い、それが天皇の尊貴性の源になっていたためそれが出来なかった。
それに対して、仏教は当初は天皇の神々への祭祀の体系と抵触し、摩擦を起こしたが、いったんそれが王権守護、鎮護国家、祖先祭祀などのかたちで共同体と結びつけられると、宗教的な基礎として取り入れられた。
生死を超えて共同体が永続するためには、人々のよりどころとして、目の前の共同体を超えて持続する精神的基礎、「超越的なるもの」が必要である。そしてこの日常的世界を超えたものとして仏教が現れ、人々にとって最も強力な「超越的なるもの」の供給源となった。
ここで、著者は、古代日本を統一した天皇と仏教、儒教の関係を考察している。日本は儒教も仏教も大陸から来た先進文化の一環として取り入れている。しかし、儒教は、漢民族中心主義であり、日本が儒教に依る限り、中華への文化的、精神的従属に甘んじなければならない。しかし、古代日本は、天皇に、中国皇帝と別の正統的な機能を与え、中国とは別の「天下」を確保しようとした。そのため中華に従属しない独自の超越的基礎が必要であった。
そのため仏教がもつ普遍性が大きな助けとなる。仏教は、当時の全世界を意味するインド、中国、日本を貫く普遍性を持ち、仏教の「法」は、普遍的心理を意味していた。そのため、この仏教の普遍性を援用することにより、日本が小さいながらも一つの天下として独立することが可能となった。
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