『それでも日本人は「戦争」を選んだ』加藤 陽子著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
5章 太平洋戦争 戦争拡大の理由
これまで、日中戦争からの日本と各国の情勢の話であったがここから当時の日本国内の話に変わる。まず著者は、
ここまでのお話を表面だけを理解すると、なんだか、英米ソなどの国々が中国を援助したから日中戦争は太平洋戦争に拡大してしまったといったような、非常に他律的な見方、つまり、他国が日本を経済的にも政治的にも圧迫したから日本は戦争に追い込まれた、日本は戦争に巻き込まれたのだ、といった考え方に聞こえるかもしれません。しかし、それは違います。日本における国内政治の決定過程を見れば、あくまで日本側の選択の結果だとわかるはずです。(抜粋)
といって注意を与えている。
ヨーロッパで第二次世界大戦がはじまったころは、日本はこれに介入しないことにしていた。しかし、ドイツの快進撃をみて全体主義的な国家支配のあこがれが芽生えていた。
このころ陸軍は、これからどうすべきかについて意見が二つに分かれていた。
① 参謀本部は、日中戦争を戦い抜くために南方の資源を獲得して自給自足圏を作るという考え方になっていった。参謀本部はこれまで対ソ戦だけを重視してきた考えが、少し変わっていた。
② 陸軍軍務局はアメリカと交渉して日中戦争解決の仲介をしてもらおうと考えていた。そのためアメリカのハル国務長官との交渉のため軍務課長の岩畔豪雄(いわくろひでお)を派遣し四一年四月十六日に日米交渉に着手する。
このころアメリカは、武器貸与法が成立し大量の武器をイギリスに送り始めていて、かつ海軍の大鑑製造も始まったばかりで、まだ時間がいる状態でありアメリカと交渉することに妥当性もあった。
このような情勢のとき、四一年七月二日に南部仏印進駐を含む「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が御前会議であっさり決まってしまう。著者は、どうしてこのような決定がやすやすと決まってしまったのか?どうして陸軍軍務局が反対しなかったのかとの疑問に波多野澄雄氏の研究によって答えている。
当時日本は、松方洋右外相主導でソ連と日ソ中立条約を結んで日独伊の三国同盟+ソ連の体制を作った。これは日本にとってとても魅力的な体制であったが、御前会議の前の六月二十二日にナチスドイツが独ソ戦を始めてしまいそのプランは崩れてしまう。ここで松方は、日本もドイツと一緒に背後からソ連を攻撃しようと言い出す。これに賛成したのがもともと対ソ戦を重視していた参謀本部である。これに対してアメリカとの交渉を考えていた海軍と陸軍軍務局が反対し、北方の戦争をけん制するため南進をすすめるように提案した。このころ軍の見方では、仏印の進駐にとどまっていればアメリカの禁輸はないと考えていた。
しかし、仏印への進駐が開始されるとすぐにアメリカは、日本資産の凍結、石油の禁輸という日本が予想していなかった強い制裁を断行した。なぜこのような迅速な反応をしたかについては、ハインリックの研究(細谷千博他『太平洋戦争』東京大学出版会)により解説している。
アメリカとイギリスは四一年九月二十八日にソ連に軍需物質を送る協定を結ぶ。アメリカとしては、ソ連に十分な兵器を輸出できる能力ができる四二年の春までは、ソ連が持ちこたえてほしいと考える。そして、ソ連が日本の北進を心配しないでよい環境を作るために日本の南進に強い制裁を加えた。
関連書:細谷千博他(著)『太平洋戦争』東京大学出版会1993年
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